仏教の開祖 釈迦(画像)
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内省
『内観』というのは、文字通り『内を観る』時間ということだ。難しく考える必要など全くない。
反省(猛省)⇒内省⇒内観
この順番で、『潜る深さ』が変わるということだけ。たったそれだけのこと。それ意外の余計なことを一切考えてはならない。宗教だとか、修行だとか、なんたらかんたらだとか、そんなことは一切関係ないのだ。
『反省』するときそういうことは考えるだろうか。考えないはずだ。その感じでいい。だが、一つ気を付けるのは、当然⇒に行くほど真剣にならなければならないということである。そこにはある種、確かに『修行』っぽさや、『達観』にも似た、『神々しさ』があるかもしれないが、そういうことも一切無視するのだ。
それらは思慮の邪魔になるだけ。純粋な内観とは、そういう一切の邪念を取り払った状態でなければ、効果は歪曲してしまうだろう。ただ純粋に、自分と向き合う時間を作るのだ。それだけ。それ意外のことを一切考えてはならない。信仰を持つ親に反抗し続けた私がやったぐらいだ。それでもう十分だろう。
内観とは、人間の運命・パラダイム(価値観)を変えるほどの実力を持っている。ブッダがやったのは『ヴィパッサナー瞑想』と言われるものだが、これも『内観』と同じだ。もし仏教徒なのであれば別にその『ヴィパッサナー瞑想』の意識でやってもいい。なんだっていいが、とにかく内観をやらない理由がない。私は心の底からそう確信している。『内観』というワードを知らないだけで、人はそれを無意識にやっているのだ。例えば、
大きな事故で入院したとき、 不治の病に侵されたとき、 長い投獄生活を余儀なくされたとき、 職を失ったとき、 国家の危機に瀕したとき、 心底からシンクロする感動や物語に出会ったとき、 家族を失ったとき、 人生の黄昏時を迎えるとき、我々は、『反省』でもない、『内省』をも超えた、『内観』を無意識に、やっているのだ。そして後になって必ず言うだろう。
それを、『環境の力』ではなく、主体的にやるのだ。例えば、釈迦が『ブッダ』になる為にやったのは、その『主体的な内観』なのである。
参照文献
法句経350。