仏教の開祖 釈迦(画像)
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内省
何しろ、ブッダは罪の定義を『執着』とした人間である。ちなみに、キリストは『罪』、ソクラテスは『無知』、孔子は『利己』である。キリストの『罪』という言葉を紐解くと『見誤る』ということになり、『欲望を間違った方向に持っていく』ことを指す。これらの『四悪』から目を逸らさなければ、人間はきっと、立派に生きていくことが出来るだろう。
例えばブッダの言う『執着』の話だ。
- 『○○がいないと生きていけない』という依存体質の人
- 『今すぐ会いたいよ。会えないと苦しいよ』という依存体質の人
- 『またあの女(男)、下品でけがらわしい』という依存体質の人
これらは全て『依存』だ。神、金、力、美貌、酒、煙草、麻薬、恋人、嫉妬、何でもいい。それら一切の外部要因に依存している人間こそが、『執着』の罪に溺れている人間のことなのである。
『執着』にまみれた人間は、どこか歪曲している。こういう人間は人生をスムーズに送れないし、こういう人間といたら人生が苦しいばかりである。『執着』をやめなければならない。自分の人生、そしてこの世を考えるのだ。そうすれば、『執着』自体が何と愚かな選択肢か、おのずとわかるだろう。
以前、私よりも30歳以上離れたある知人が、さも自分たちをある種の賢者のような立場に置いて、意気揚々と後生である私に人生を語り始めた。だが、その会話の最中、
ある女性
などという、およそ賢者とも言えぬ『執着心』を露呈させたのだ。それでいて自分の人生を棚に上げたような軽薄な話は続く。これで、なんだかという信仰の敬虔な信者であり、あのような傲慢な態度が取れるのだから、私との縁も切れたのだ。
私は無意味に人と縁など切らない。私も3年は我慢したのだ。彼らが面と向かって謝罪し、自らの傲慢さを認め、人生を内省するのであれば、問題は一瞬で解決する。だが、彼らは3年以上たってもそれが出来ない。それどころか、もう年齢的にも死期が刻々と近づいているのだ。私よりも30歳以上も年上である、”先生”たる人間が、それが出来ないというのだ。恐らくこのままないがしろにし、墓場まで持っていくのだろう。
何と愚かな選択肢だろうか。そこまでして『執着』するほど、傲慢な人生は楽しくないはずだ。だが、わかっていても出来ないのだ。自分で会社を経営し、自分たちが人生の舵を握り、主導権を取ってきたと思い上がるような人間に、こういうタイプは多い。これが『傲慢』の正体だ。そしてそれに『執着』して生きている。よく言えば、それを『矜持』として生き抜いてきたのだろうが、事実、『執着』は罪なのである。これが『執着』の恐ろしさであり、ブッダが罪の定義にするだけある、大きなテーマ、問題なのである。
彼らはただ思慮浅いだけなのだ。彼らのような人々は口をそろえて、『悪気はない』とか、『そんなつもりはなかった』と言うだろう。彼らには共通点がある。子供を非行に走らせたり、ヒステリックになってみたり、妙な信仰を持っていたり、エゴを捨てられない頑迷さがあるのだ。
そう、それこそが『執着』が生んだ、罪なのである。もう一度ブッダの『執着』を含めた四聖の罪の定義を思い出すべし。それが本当に出来れば、あらゆる人生の問題は、解決するだろう。
参照文献
法句経210。