仏教の開祖 釈迦(画像)
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内省
何かに依存すれば『楽になれる』と、人は信じようとする。(そうであってほしい)と強く願うが故、そうなったときに舞い上がり、そしてそうならなかったときに憂うのだ。宗教も同じだ。私の親はクリスチャンだが、20年ほど前こう言っていた。
母親
実の親が『自分よりも弱い』と感じ始めたのは、その頃からだった。それまでは年上や親というだけで、求めるものが大きかったが、それ以来は徐々にだが、こう考えるようになっていった。
この人は自分より弱いんだ。自分より弱い人間に、あれこれと求めるだろうか。例えば、年下や後輩にはどうだろうか。いやたしかに求めはするが、求め方が違う。
どちらかというとこちらが『やれやれ』というスタンスで、大人に、温かく見守るという形を取るのではないだろうか。親が自分よりも弱いと考えることはなかったが、だがそう考えたのなら、腹は立たないか。自分が教えてあげる立場なのだから。)
私はいつも一人だった。最愛の家族に依存していた時期もあったが、奇しくも、それが『宗教』によって打ち砕かれることになったのだ。
私自身依存していた側だ。その依存していた親に、求めていない宗教を長きにわたって力づくで強要されたことによるショックは、私の人生を大きく変えてしまった。もちろんショックなのは、親の方も同じだっただろう。親、子、その両方が相手に責任を転嫁し、自分の非を認めなかった。
私のことは、置いておこう。私の人生で起きたことは、すべて私の責任だ。だが、もし、親と子、家庭内の問題が起きたとき、そのどちらに責任があるかと問われたら、私は迷わず、『親』だと言うだろう。親は、『大人』だ。子供に、人生の生き方の、教育をする責務がある。いや、使命があるのだ。自我が発達している子供に、無理やり何かを強要するのは『教育』ではない。『エゴ』だ。
依存すれば楽になれる?実際は逆だ。
少なくとも私の家庭では逆だった。『依存』という頑なさ、頑迷さがあったから故、多くの問題が起きたのだ。何かに依存していると、『こういうミス(不和)』が起こる。自分の目の前のもの(依存しているもの)しか見えなくなって、真実(本当に見なければならないもの)を見誤る。
なにかに依存する。その気持ちは痛いほどよくわかる。だが、『楽を求めた結果、楽しい人生を送ることが出来なくなった』、そんなことのないように、しっかりと真実を直視しなければならない。
人間はいつか死ぬのだ。何よりもまず最初にそれを理解し、真理を直視して目を逸らさず、『悔いのない人生』がどういう人生かを見極めることだ。それを教えることが、教育なのだ。それ以外はエゴだ。それ以外を求めることから解放されることが、真の自由なのである。楽と転嫁、解放と自由。同じような言葉に見えるが、実際の意味は全く違う。
『悔いのない人生』とは、現実から『目を逸らす』ことでも、何かに依存して『楽』をすることでも、自分の人生の責任を誰かに『転嫁』することでもない。それらを求める弱き心から『脱却』し、この世のあらゆる理不尽から『解放』され、真理に沿って生きることで自由を手に入れる、そういう人生のことなのだ。
参照文献
法句経337.340。