仏教の開祖 釈迦(画像)
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内省
そもそもブッダは自分を超自然的存在、神として崇められることを拒絶していた。そういうことではない。それで答えは見つからない、と。だが、我慢できなくなった弟子たちが、長い年月を経て、ついには仏像を作ってしまい、また更に長い年月を経て、幾多の宗派を生み出してしまった。
この『経集853』にある、『快楽の刺激を求めない』というテーマについてもそれがわかっていればわかるはずのことだ。人間の脳は、『ドーパミン』(オピオイド)などが有名だが、報酬系物質、という物質が放出されると、快感を感じるようになっている。それは、人から褒められたときや、物事が思い通りに行ったとき、あるいはSEXや、煙草や、麻薬などからもそれが放出されるようになっている。その『報酬系物質』が出ているときは、人は多幸感に包まれ、何とも言えない充足感に満たされてしまうものだ。
それが良い場合と、悪い場合に転がるケースがある。
良い場合に転がるときは、それを、支配しているときだ。やはり、幸福の源であるその報酬系物質は、人生を楽しく生きるには不可欠。人間の賜物なのだから、それは謹んで、楽しむべきなのだ。そう考え、快楽を求める。だが、その求め方には節度があり、これら『仕組み』への、正確な理解がある。そういう人は、生き方を見誤らない。それに溺れて、他のことをおそろかにすることはない。
一方、悪い場合に転がるときは、それに、支配されているときだ。人が、喫煙、麻薬、衝動買い、暴飲暴食、浅薄なSEXに走ってしまうのは、『手っ取り早く報酬系物質を出せるから』である。途中経過を、おざなりにしているのだ。そんな過程はいいから、さっさと報酬を貰いたい。今すぐ苦悩から抜け出したい。そういう風に、『盲目状態』に陥っている場合が、悪いケースだ。
彼らは当然、生き方を見誤っている。そういう人では、成せることはごくわずかだ。思慮も浅く、真理からも外れ、そして人の道からも外れがちである。言うなれば、前者は『やるべきこと』をやれる人。後者は『やりたいこと』をやってしまう人。そして後者のような人間こそが、心の安定を欲し、特定の宗教や人を信仰するようになってしまうのだ。
ブッダは言う。
『心が深く落ち着いているなら、特定の宗教や人を信仰する必要もなく、いまさら(心を落ち着けなくては)とがんばる必要もない。』
宗教、信仰、人に頼り、何かにすがりたくなる気持ちはわかる。だがその前に、自分の心と向き合う時間を、丸一週間でもいいから作ってみよ。その間は、食事と排泄以外の一切を遮断し、一切の邪念を断絶することが重要だ。そうじゃなければ、深い内省は得られない。
それは『内観』という。ブッダがやったのもその『内観』だ。(正確にはヴィパッサナー瞑想)
「よく観る」「物事をあるがままに見る」という意味。
そこから目を逸らしてはならない。逆に言えば、自分の心の中にすべての答えが眠っていることについて、武者震いするべきだ。そういう無限の可能性を秘める自分に、私なら気分を高揚させ、湧き出るエネルギーを感じる。
参照文献
経集853。
関連する『黄金律』
『人間が戦うべき相手は外にはいない。「内」にいるのだ。』
『アウトサイド・インではない。インサイド・アウトだ。』