仏教の開祖 釈迦(画像)
Contents|目次
他人からの評価に自分を支配されている人間が実に多い。他人からの批判、他人からの称賛、批判されれば嫌な気持ちになり、称賛されれば浮ついた気持ちになる。
ここで重要なのは、それを『当たり前だ。人間なのだから』と、正当化をしないことだ。その正当化をして、それが出来ない人が、実に大勢いるのが現実である。恋愛もするし、人づきあいもある。それなのに、人からどう思われているかを気にしないなど、出来るわけがない。往々にして言い聞かせる正当化とは、そういうものである。だがあえて、今回は断言しないで答えをはぐらかしたいと思う。
ブッダ、つまり釈迦は、インドの王子だった頃、酒池肉林の豪遊三昧の日々を暮していたある日、眠気が覚めてふと部屋を見回したら、裸の男女が酒に潰れて爆睡している光景を目にした。釈迦は、彼ら彼女らが『死体の山』に見えたという。
そして、釈迦は考えた。
(このままでいいのだろうか。自分の人生とは、一体なんなんだろうか。)
釈迦は、旅をすることを決意した。釈迦には子供がいた。それが少し引っかかったが、釈迦は、子供に挨拶もせずに旅に出たのである。のちに釈迦は『ブッダ(悟りを開いた者)』となり、『罪』の定義を、『執着』だと言った。
さて、ここまで紐解くと、あまりにも深いこの言葉。ブッダと大勢の人、一体どちらが正しいのだろうか。人目を気にしていちいち一喜一憂する人?家族すらからも束縛されずに自由を見出す人?
ちなみに私は、真理の追究をしてからなのか、経営者になってからなのが理由なのかはいちいち考えたことは無いが、ここ10年、恋愛をしていない。恋愛対象を含めた、全ての人の目など、気にする必要はないと、考えるようになったからだ。だが、このままブッダのように家族にすらも『執着』せず、真理のみを追究する仙人になるつもりもない。どこかでもう一度人を好きになり、どこかで結婚して、子供を授かり、命を繋いでいきたいと思っている。
それは、『幻に浸る』ということなのだろうか。今の私にはこの答えは出ないが、この幻のような儚い人生で、その答えを見誤る人間が大勢いることは、なんら不思議でないのではないだろうか。
経集928。