仏教の開祖 釈迦(画像)
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内省
見栄とプライドの意味をはき違えている人が多すぎる。私も当然その一人であった。なぜかとその原因を考えてみたら、周りに、その違いを説く大人が皆無に近いという事実も深く関係しているだろう。
17歳のとき、私は恩師と出会った。といっても、私は彼、彼らのことを『恩師』と呼ぶのは、それから数年経ってからのことだった。理由は簡単。彼らと出会い、別れてからというものの、彼ら以上に、人間のことを知り尽くし、男について突き詰めて、本当の信頼関係の築き方を理解している人間は現れなかったからだ。
恩師は言った。
『ミエは張るものじゃない。切るものだ。”見栄を張る”という言葉と、”見得を切る”という言葉がある。
前者は、自分の身の丈以上のことをしようとして、背伸びしている状態。こういう人は往々にして、よく失敗し、後悔する。こういう人は、弱いのを包み隠すのがそもそものその態度の理由だから、いざという場面では実はすぐに音を上げて、役に立たない。
後者は、歌舞伎で使われる言葉だ。いざという場面で、格好をつける。自分がどんな状況にさらされていようが、やるべき場面で、やるべきことをしっかりとやる。これが、その言葉の意味だ。
お前らは、見栄っ張りだからな。だが、これからはミエの在り方を理解したはずだ。ミエは張るものじゃない。切るものだ。』
- 『俺様は偉い』
- 『私は称賛されるに値する』
- 『俺のセンスは抜群だ』
- 『僕は大事に扱われて当然だ』
これらの見栄を持っていると、そうでない現実に直面するたび、怒りが自分を支配する。これを、『プライド(誇り、矜持)』だと誤解してしまっているのだ。普通、プライドは、捨てないものだと考えるだろう。
だが、これが『見栄』ならどうだろう。これが、プライドでなく『見栄』だったと知ったら、どうだろうか。本当にプライドが高い、誇り高い人間とは、自分のことを一番最後に考えることが出来る、矜持のある、高潔な人間のことを言うのではないだろうか。
参照文献
法句経221。
関連する『黄金律』
『人の評価に依存することの愚かさを知れ。依存しないなら強い。』
『人間が戦うべき相手は外にはいない。「内」にいるのだ。』