仏教の開祖 釈迦(画像)
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私もたくさん、理不尽な目に遭ってきた。おそらく人よりも多く、その体験をしただろうし、そして、これからもするだろう。最初は、『なぜ理不尽があるのか』と、その現実を受け止められなかった。だが、そうやって理不尽があるたびに深く傷つき、悩み、葛藤し、耐え忍び、失い、後悔を積み重ねていくと、知らぬ間にそれについての免疫ができて、対処法を見出せるようになっていた。
そもそも理不尽を受け入れられなかった理由は、『理不尽に屈したくなかった』からである。自分の葛藤の根底に、そういう心情があるということが浮き彫りになってきたとき、自分が知らぬ間に、『理不尽に屈していた』ことを、思い知ったのだ。
そう。理不尽について一日中悩まされ、葛藤し、傷ついていた私は、理不尽に支配されていたのだ。『理不尽に屈しない』ということは、『理不尽に感情を支配されない』ということだったのだ。
裏切られ、盗まれ、嵌められて、騙され、揶揄され、誤解されて、それでも尚、そのとき湧いて出る『負の感情』に自分を支配されなければ、それは、『理不尽を支配した』ことになるのだ。
孔子は言った。
『虐待されようと、強奪されようと、忘れてしまえばどうということはない。』
キリストは言った。
『あなたの敵を愛しなさい。』
難しい?たしかにそうだ。だが、これが出来れば、『成功者』だ。この世の多くの人々は、『成功者』の定義をはき違えている。理不尽をなくすことはできない。諸行無常を変えることはできない。なくす必要はないのだ。変える必要もないのだ。自分本位になり、人間本位になり、合わせる焦点を間違えてはならない。金に、”力”に、理不尽に、そして人生に屈してはならない。
法句経3。