仏教の開祖 釈迦(画像)
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正直、自分の心の心底では、常に自分を何よりも優先させる心が働いている。そういうものなのだ。それは、人間だけではない。それについて憂う必要はない。
『『中国古典』の教え』の『史記』について書かれた一文にはこうある。
『地位が上がったり下がったりすることによって、付き合いの深さが良くわかる』
こちらが調子のいい時は放っておいても人は集まるが、落ち目になると、さっと去っていく。遥か昔から今において、変わることのない愚かな習性である。本は続けてこう言う。
『だが、初めからそれが人情だと心得ていれば、人が寄ってきたからといって喜ぶこともないし、去っていったからといって嘆くこともないのである。』
ついついその薄情で表裏的な他者の言動について、憂いて悩んでしまう、繊細な人もいるだろう。私など、そういう人間の代表のようなものだ。とても繊細で、傷つきやすい。しかし、ブッダや古典の言う様に、『初めからそれが生命の実体なのだ』と考えていれば、それについて嫌な気持ちになることは減少するのだ。
赤子や幼い子供が、自分で食事を取ったり、用を足したり、会話をすることが出来るだろうか。我々は初めから彼らに、それを要求しない。だから、それについて腹を立てることはないはずだ。もし腹を立てている人がいるなら、それは『親』の心構えをする前に、子を作ってしまった人間だ。『親』とは、子に対し、育児と教育をする覚悟を持った人間を呼ぶ名称である。
『敵視』するのでも、『見下す』のでもない。『やれやれ』という考え方で、どこかどっしりと腹を据えて対応するのが、子に対しても、全ての生命に対しても求められる、人の心の在り方なのである。
小部経典『自説』。