仏教の開祖 釈迦(画像)
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内省
私の部下が、私利私欲のコントロールをしている最中だ。精神が未熟なうちは、私利私欲が触発されるようなものに触れるべきではない。触発されて我を見失い、粗相をしたことの、なんと多いことか。それで後で後悔して反省する姿など、誰も見たくはないのである。
例えばタコ焼きを一つ食べることが、何の意味があるのか。その一つを欲張って頬張り、自己満足に浸るのではなく、我慢し、人にあげるのだ。 そうすれば、満幅中枢以外の部分が十分に満たされる。人間の心が満たされるのは、満幅中枢が満たされたときだけではない。タコ焼き一つぐらいの食欲を支配できずに、人生を支配できると思ってはならない。 もしかしたらその後、そのあげた彼に、ラーメンをご馳走になることがあるかもしれない。これは、ノンフィクションである。私と部下のやりとりなのである。
彼はある罰を受けている最中だった。しかし、私が食べたタコ焼きが余ったから、捨てるわけにはいかないので部下にあげたのだ。本当は、あげない方が教育の為に良かった。飼い犬に、『エサを与えないでください』という看板をよく見ると思うが、あげている本人たちはそりゃあ犬が喜ぶのを見て満足するだろうが、その後、犬を飼っていくのは、飼い主なのだ。
もし、飼い主が用意する食事を食べなくなったらどうする。我が儘に育ったらどうする。病気になってしまったら、どう責任を取るのだ。間違いなく彼らは、その責任を取らない。教育とは、そういうことについて真剣に考えることを言うのである。
さて、私は部下に余ったタコ焼きをあげた。すると彼は飢えているので、喜んで食べた。しかし、飢えているとは言っても、必要な分はちゃんと食べているのだ。しかし、欲望というのは際限がない。とかく、若者にとってはジャンクフードやおやつは、別腹である。私が違う用事に行っている間に食べろと指示をし、ゆっくりさせた。そして戻ってきた私の姿を確認すると、さっきまで背伸びをしてゆっくりしていたのにも関わらず、すぐさま残りのタコ焼きに手を伸ばし、急いで食べてしまった。
私はそれを見て、
(そんなにあわてなくても、俺はもう食べねえよ)
と思ったし、
(そんなにがっつく必要があるのかよ。タコ焼きひとつで)
と思った。そしてその前に忘れてはならないのは、彼は『罰則中』なのである。そういう身にある人間が、取るべき態度はそうじゃない。もし、帰ってきた私が、 『やっぱり食べる』 と言ってそのタコ焼きを食べることがあっても、いいではないか。 元々、私が買ったものなのだ。それに、タコ焼きひとつ食べたところで、何が満たされるというのか。私利私欲に支配される人間は傍から見て、とても醜いのである。
私は部下に説教をして、その後高速道路で渋滞になり、疲れたので、東京に着いてから、とある行きつけのラーメンを食べることを思いついた。それは計画にはない、自然の行動だった。
もちろん、彼の分も上司である私が出す。そのとき、彼の頭はどういう思考がよぎっただろうか。つい1時間前、タコ焼きひとつにがっついて、独占欲に自分を支配された。自分の立場をわきまえた謙虚な心と利他の心があれば、もっと気持ちよくラーメンを食べることが出来たに違いない。
ものを欲する私利私欲について、一度じっくりと考える時間を儲けると良い。もしかしたらそれに自分を支配されているから、自分は(自由じゃない)と思い込んでいるのかもしれない。
参照:法句経92
参照文献
法句経92。
関連する『黄金律』
『足るを知る者は富む。足るを知らぬ者は貧しい。』
『アウトサイド・インではない。インサイド・アウトだ。』