仏教の開祖 釈迦(画像)
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『信号』というのは、『感情』よりもずっと事務的で、機械的な感覚である。要は、『感情に身を任せないのは、人間じゃない』という声が聞こえてきそうなので、『信号に身を任せるな』という表現をしているのだ。
例えば『信号』は、『サイン』とも呼ぶが、快楽を味わったとき、怠惰に走ろうとするとき、衝動に駆られようとしたとき、憎しみに蝕まれようとするとき、人間は、『感情』と表現するにはまだ早い段階の、『サイン』が脳に、送られる。要は、そのサイン(信号)に従うなということなのである。私自身がそうだったし、ということは私の周りにはそういう輩で溢れていたという事だが、人間は面白いことに、この『サイン』に身体を乗っ取られている時が、外から見てわかるようになっているのだ。
まあそれはそうだ。前述したようなことに支配されていない人間は、そもそも『外から見て、変化がない』わけで、支配されている人間はその逆なわけだ。『感情』はあって当然良い。だが、『信号』に自らを支配されているのであれば、いささかそれは、情けないと考えた方が良い。特に、他の動物や昆虫と差別化して『人間』を主張するのであれば、尚の事、自分自身からも自由であることが求められる。
経集736,737。