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ブッダ『理不尽に出遭えば、負の感情に支配されそうになる。だが、心を落ち着けよ。』(超訳)

仏教の開祖 釈迦画像

内省

理不尽な出来事のせいで、自分自身も理不尽な存在になる。これこそが最も悲しく、愚かな現象である。『家族が殺された』という、究極のテーマはひとまず置いておいて、理不尽な出来事に屈さない心を、普段から持つことを心掛けるべし。何しろ、普段からでなければ、いざという時に動けない。身を任せてしまうのだ。激昂し、憤慨し、居直って、衝動に身を任せてしまう。

 

(別に耐える必要はない)

 

と考えてしまいその負の感情に身を任せて、自らも理不尽な存在に成り下がってしまう。あるいは、ふさぎ込み、根に持ち、溜め、刻み込み、

 

(いつか必ず仕返ししてやる)

 

と考えてしまい、その負の感情というウイルスに身体中を蝕まれてしまい、結局自らが、理不尽な存在に成り下がってしまう。それでは『負け』だと考えた方が良い。相手の『理不尽という毒』をどう処理するかが求められるのだ。前述したような方向に持っていかれるのであれば、それは『敗北』であり、『感染』である。『解毒』するのだ。それこそが求められている感情のコントロール、処理能力である。

 

ちなみに私も昨日、『毒』を受けた。それはそれは、理不尽だった。しかし、相手は理不尽だと思っていないようだった。相手が男だったら、いざとなったら怒鳴り散らして力づくでねじ伏せるし、家族だったら、一生の関係だから話し合いの場を設ける。だが相手は顔見知り程度の女性なので、それが出来ないことも、私にとっては理不尽だった。相手もその後後悔していた様子もあるし、あるいは『それでずっとやってきた』という感じもあるし、とにかく私が彼女に、それ以上何か言うのは違うと思ったのだ。

 

以前の私なら、暴力的な方向でこの手の問題を解決していた。別に、殴りつけるというわけではなく、極めて『力づく』に解決していた。『理不尽』だからだ。それに対して同じようにして返すのは、当たり前だからである。

 

だが、知性に目を向けるようになってからというものの、『それをしたらお前の器は知れるぞ』ということを理解するようになった。相手の毒を、まるで自分の心の中で処理して解毒する。その為なら、その場で目をつぶってそこで瞑想を始めてもいいだろう。それぐらい大変なことだとは思うが、それぐらいやる価値がある。

 

以前私は、ブッダの言葉を通してこんな記事を書いた。

 

永久に続く負の連鎖にハマり、気づいたら自分自身もその毒素に蝕まれていたという、最も悲しく、愚かな結末になるよりは『無敵のバリア』を手に入れた方が、断然いい。一度そのことについて考えてみるのが良いだろう。

 

 

注意

※これらの言葉は参考文献や史実に基づき、運営者が独自の見解で超訳し、自らの生きる糧、自らを戒めるため、内省の為に日々書き留めたものです。史実を正確に把握したい方は正当な書物をご覧ください。

参照文献

仏典

法句経34。

関連する『黄金律

『人間が戦うべき相手は外にはいない。「内」にいるのだ。』

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