仏教の開祖 釈迦(画像)
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私は5年前、『『1』の仕組み』という概念をブログに記載したが、なんと今回のブッダの言葉はこれと同じことを突いている。例えば、よく失敗する人がいるとしよう。よく失敗するというぐらいだから、自分では『どうして失敗したのか』わからない。 つまり、順番がわかっていないのだ。混乱している。簡単に言うと、道が二つに分かれていて、
という風に、それぞれの道が5段階に、地点に番号、あるいはアルファベットがふってある。この場合、(道1)が『失敗の道』だとしよう。(道2)が『成功の道』だ。『どうして失敗したのか』わからない人はつまり、『3』や『4』、あるいは『5』という失敗地点について、初めて自分が(また5に来てしまった)と自覚するのだ。
だが、類推(推測して道を読むこと)ができる人間は、もう最初の段階で、つまり『1』か『A』かの段階で、自分がどっちの地点を踏めばいいか理解している。当然『A』だ。『A』が『成功への道』だからだ。
そもそも私が5年前にその概念を記載した理由は、この『1の仕組み』を理解出来ない、病的とも言っていいほどの軽率な部下の為に、わかりやすく教えてあげようと思ったわけだが、実は、あれから5年経った今でも、この『1の仕組み』を彼はまだ完全に理解していない(もちろん当初と比べるなら、改善は見られている)。だが、彼らにも彼らの言い訳がある。
実際には『1の仕組み』として簡単に記載したが、実は『1』というのは、『1かAか』という単純明白な実態で突きつけられないのだ。その質問だったら、恐らく誰もが『A』を選択するはずなのだ。
しかし実際に突き付けられるのはそういう簡単な二択ではない。例えば、
『1分前に起きて報告のメールを打つ』
ことと、
『10分前に起きて報告のメールを打つ』
あるいは、
『褒められたからヘラヘラしてそれを甘んじて受け入れる』
ことと、
『褒められたということは二流だと思われたと解釈してふんどしを締め直す』
ことのように、一見すると『些細な事』だったり、あるいは『目に見えない内面的な心構え、受け取り方』 になる場合が多く、気がついたら『1』に一歩を踏み出してしまっているのだ。だからもうこれは、『気を付ける』程度の心構えでは絶対に『踏み外し』を防ぐことは出来ない。
部下も口癖で『ミスをしないように注意する』と言っているが、 これはつまり、
(気を付けるといっても、気がついたら『1』を踏んでるんだよなあ。 それは防ぎようがないんだよ。でも、注意するとしか言いようがないしなあ。)
と言っているようなもので、これで丸6年、気がついたら『1』を踏んでいるのだから無残だ。ここで考えなければならないのは、『1』の前には何があるか、ということである。
それは『0』である。
『0』というのは、もう、『一歩』、『一言』と言う様な『言動という結果』ではなく、その『言動を取ろうとする自分の内面』のことである。
(だって)
(もし)
(どうせ)
この様な『1』を取ってしまう自分の『0』という内面が変わらなければ、永久に『1』を踏み続けるだろう。そしてそれは『5』という取り返しのつかない失敗までの道のりの第一歩である。
ではここで、わかりやすく
ではなく、
ということにした場合はどうだろう。数字の前に『+、-』がついた。これが『0』の変更で見えるようになる新たな領域である。
『パラダイム転換』とは、価値観そのものを変えるという概念。わかりやすくカーナビで言えば、『渋谷に行きたい』 のに、『池袋にナビがセットされている』 場合は、渋谷にはたどり着けない。それを、『渋谷にセットし直す』ことが、『パラダイム転換』なのである。根本を変えるのだ。自分は今まで『-1』を踏んでしまっていた。それは心が、『マイナス思考』だったからだ。言い訳ばかりし、先延ばしにし、誤魔化し、偽り、生きながらえていた。しかし、『パラダイム転換』に目を向け、根本から考えを改めた。
今日一日を生きることが出来ずに死んだ人の事や、病気や戦争で苦労している人のことを考えただけで、自分が取っている行動が、単なる『甘え』だったことに気が付いた。生きているだけで丸儲けなんだ。『もうこれしかない』 ではなく、『まだこれだけある』という考え方に変わった。それはつまり、『プラス思考』になった。すると当然、踏み出す一歩は『+1』になったのだ。
ブッダもこう言っている。
『原因と結果の法則性を意識し、苦しい結果をもたらす原因となるネガティブな思考から離れて行動する。そうして心地よい結果を受け取ること。それが最高の幸福。』
全ての鍵は『0』にある。
経集263。