仏教の開祖 釈迦(画像)
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内省
だが、時間をかけて行う教育と、時間をかけずに時短的に行った教育では、何か違いがあるだろうか。例えば覚えの良い人と悪い人がいるはずだが、それに関してはどう説明できるだろうか。例えば中国拳法は3000年という長い時間をかけて、 今の無駄のない型を築き上げた。 失敗、成功、また失敗。そうやって試行錯誤を繰り返し繰り返して、 磨き上げたからこそ、卓越しているのだ。その歴史を受け継がず、思い上がって同じことをゼロからやろうと思えば、そこに到達するまでに、また3000年かかる。
例え表面的に『同じ型が1年で完成した』と思っても、 それは同じではない。
- 何の為に始まったのかという起因
- 何のために戦うのかという極意
- 何のために遺すのかという真意
といった、3000年の歴史の中で、幾多もの失敗と成功、生と死が重なり合って積み上がった境地には、1年という時間の中では到底達することができないからだ。
だとしたらそれはこういうことだ。覚えの良い人と悪い人がいる。良い人は確かに優秀だ。だが、時間をかけて教育されたものに勝つことは出来ない。それは、土壇場、土俵際、あと一歩の差というところかもしれない。しかし、そのかけがえのない『かけた時間』こそが、人間の潜在能力を引き出すエネルギー源になる。
そう考えると、今まで『水の泡』だと思ってきたその全ての教育が、実は全て、『細胞』として組み込まれているのだ。今はまだそれが表面化されていないのであれば、それはただ『細胞が満ち足りていないだけ』だ。人格が変わるまでの細胞を組み込み直すには、時間がかかる。いや、時間をかけて組み込むことが、重要なのだ。
参照文献
仏典
経集261。