仏教の開祖 釈迦(画像)
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知っているようで知らないのが、この言葉だ。例えば『知っている』と言ったとしよう。なぜそれを言ったのか、自問してみるといい。『言う意味』はあるのだろうか。 誰に、言うのか。何の為に、今それを言ったし、言う必要があったのか。
もしかしたら『知らない』と言った方が、結果的に得をするかもしれない。『金の卵』で満足して、『金の卵を生むニワトリ』を逃すようであれば、その演じている『知者』は、『無知者』ということになり、恥をかきたくないあまりに出したその『見栄』は、刹那的でとても虚しい。例えるならこういうことだ。東京で言えば、
このあたりのエリアの一部に住むことは、確かに一等地居住者として、群を抜くことになる。しかし、自分は本当に『群を抜く存在』であるか、自問した方が良い。
もし『見栄』に支配され『身分不相応』なことをすれば、それは仇となり、自分の身に返ってくるだろう。その間、『身分相応』な土地に住み、無駄な支出を最低限に抑え、確実に種を、雪だるまの源を積み上げている者がいる。きっと彼らには勝てないだろう。彼らはとても、合理的である。身分不相応な人間が自分の身分を強制的に思い知ることになるとき、ちょうど雪だるまはゴロっと転がって、2サイズも3サイズも大きくなっている。
そして入れ替わるだろう。それぞれが在るべく、『元(相応)の位置』に。もっとも、本当に人として『一等』である人は、別にその一等エリアに執着することはないのだが。
経集260。