仏教の開祖 釈迦(画像)
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答えはこうだ。
『執着は罪』。
それをまず絶対原則として理解することが重要である。しかし『執着を捨てる』というと、なにかこう『手放す』ような、『人として間違い』のような、そういう感覚に襲われる人がいるのではないだろうか。とくにこの『子供への執着を捨てる』ということなど、特にそうではないだろうか。 正直、これが仏教(ブッダの教え)の難しいところ、かつ、注目に値するべきテーマだ。
釈迦は29歳の頃、妻と子供を置いて家を出て、そして修行をし、ブッダ(悟りを拓いた人)になった。これを見た妻はおそらく、
となるだろう。しかしその妻と子供が、釈迦の本当に好きな女性と、その子供『じゃなかった』ならどうだろうか。
本当に好きな女性は、身分差別によって目を焼かれて、二度と目が見えない身体にされてしまっていたらどうだろうか。しかも焼いたのは、自分の部下だ。そしてその部下は自分の父である王を裏切り、王の座を奪うが、戦争であっけなく死んだ。そしてその後も、世に浸透した身分差別が終わることはないのだ。
たとえ自分がその政略結婚で共になった妻と、跡取りの為に生んだ子供を愛す努力をして、自分たちだけ王族の形を維持し、幸せな家族のふりをしても、目を焼かれた彼女は、一生目が見えないのである。
そして、彼女と同じように身分の低い人間は、その後も、そのずっと後も、身分差別、人身売買、奴隷扱い、強姦、強盗、餓死、不治の病、戦争、そうした『この世の負』の渦に巻き込まれ、永久に人生を呪い続けるのだ。そんな中、自分だけが幸せな人生を送ることなど出来るだろうか。
これは手塚治虫の『ブッダ』のストーリー
『現代』の『日本人』の感覚で考えない方が良い。現代もインドのガンジス川のほとりでは死体が焼かれている光景は日常茶飯事で、中国などでは人が多すぎて管理が行き届かず、混沌としている。イスラム諸国では今も『聖戦』という詭弁の名の下にテロリズムが行われ、 核爆弾の恐ろしさを知った後に、核保有をする国がいくつもあるのが現実なのだ。
作家の五木寛之は、親鸞を宗祖とする浄土真宗の教えを最も理解する身だが、著書『大河の一滴』でブッダについてこう言っている。
『人間を直視するところから、ブッダへの道が始まった』
と。自分たちだけが幸せになろうとするならば、『他の人間の人生』や『他の森羅万象の生命』を無視して、生きていけば良い。これは人間にとって極めて重大なテーマである。あなたは『人間を直視』しているだろうか。したうえで、自分たちの幸せを優先しようというのか。
幸せな家族は、実に微笑ましい限りだ。だが、その一方でこの世には『不幸な環境を強いられている人間』がごまんといて、 何もしていないのにテロリストに殺されてしまい、一生を終えるのだ。
人は本当に幸せになっていいのだろうか。彼ら、彼女らの人生は? でも、そんなこといったら、子供の世話を誰が見るのか? 全ての生命をニュートラルに、平等、公正に考えなければ答えは出ない。しかし我々は、害虫や、毒を持ったサソリと一緒に暮らすことが出来るだろうか。出来ないなら、排他的(我々は我々。他は他)な考えでこの世を生きるしかない。
しかし、その結果が格差と身分差別だ。不和、軋轢、対立、衝突、暴走、暴動、確執、混沌、環境破壊、そして戦争なのである。どうすればいいのか。答えはあるのか。ブッダはある一つの答えを出した。それが『執着をしない』ということである。この世に対する一切の『執着』が、これらの悩み、苦痛の原因なのだ。
ブッダは言う。
もちろんこんなことされたら人は絶叫する。
だがブッダは言う。
『もしこれに対して反抗してしまうのであれば、君は私の生徒とは呼べない。』
釈迦が『ブッダ』と言われるゆえんが垣間見えるワンシーンだ。『ここ』まで深く潜らないと、これらの問題に対する『答え』は見つからないだろう。それを見つけたのがブッダだ。その『救いの光』でこの世の闇に光を照らすのが、『仏教』なのである。
ここまで考えてからもう一度今回の『子供への執着』というテーマについて、 考えると良い。もっとも、場合によっては丸一週間このテーマのことだけを考え抜く時間を確保しなければ、 答えは出ないだろう。
例えば、釈迦がこう考えていたらどうだろう。
私は、いつだって強制的な人生を強いられてきた。そして周りにいた人たちも、カースト制度という強制的な身分差別の人生を送ってきた。不治の病で強制的に命を落とした若者。
奴隷制度によって人間の尊厳を強制的に奪われたまだ幼い子供達。理不尽な戦争で強制的に命を落とした男。その巻き添えを食らって凌辱された女。この世はまるで地獄だ。だが、確かにこれが、人生だ。
…いや待てよ。本当にこれはあるべく姿なのか?だとしたら特効薬は『執着を捨てる』ことだ。だとしなければ必要なのは『革命』だ。自分なりの答えを探す旅に出よう。
当時、釈迦の時代にあった『バラモン教』は、今も『ヒンズー教』と名を変え、 カースト制度の名残は尾を引いている。2500年も経ったのに、まだ尾を引いているのだ。しかし一人の男が立ち上がった。それが釈迦だ。のちに、『ブッダ』と呼ばれる一人の勇者である。
一説によると、釈迦が妻と子供を置いて旅に出ようとするとき、妻に、
と引き止められた。そこで釈迦は、『悪魔』という意味の、
と言った。これを浅薄に考えると釈迦は単なる冷酷人間だが、実はそこにあるのは『子供への執着』であるという。つまり、自分の家族のことが大事だという感覚が自分にあり、しかしそれは『自分本位な感情であり、博愛的ではない』という葛藤があった。つまりこの感情の揺れを『天使と悪魔の葛藤』とした場合、『悟りを開こうという志』が天使、子供が『悪魔(自分の志を揺り動かす驚異的な存在)』、であるということになるのだ。
つまり、釈迦はそれだけ名残惜しかった。自分の家族との別れが辛かった。だが、それは自分本位な感情であり執着。そういう気持ちを人間全員が持ってしまうからこそ問題が起きてしまう。だからこそ釈迦は、自分がまず率先して子供や家族への執着を捨てることを決意し、そう行動したのだという。
法句経78。