仏教の開祖 釈迦(画像)
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そういう人間は多い。実に多い。例えば、『『中国古典』の教え』の『史記』にある、
『地位が上がったり下がったりすることによって、付き合いの深さが良くわかる』
という言葉が、まさにその通りだ。こちらが調子のいい時は放っておいても人は集まるが、落ち目になると、さっと去っていく。遥か昔から今において、変わることのない愚かな習性である。
本は続けてこう言う。
『だが、初めからそれが人情だと心得ていれば、人が寄ってきたからといって喜ぶこともないし、去っていったからといって嘆くこともないのである。』
その通りだ。 欠点や美点で判断してしまうのが、愚かな人間の習性。だから、別にそれについていちいち反応する必要はないのだ。
例えば、美点という光に吸い寄せられた『虫』も、欠点という汚れに群がって食い散らかす『害虫』も、パパッと追い払うだろう。『虫』は、最初からそういうものなのだと知っているから、別にそれ以上のことは求めていないはずだ。同じように、人間も最初からそういう生き物なのだ。だとしたら過剰に気にする必要はない。つまり、浮つくことも、憂う必要もないのだ。
彼らは『人間』だが、『友人』ではない。『友人』とはまるで、その逆の行動を取ることが多いからだ。我を見失うほど友人がちやほやともてはやされれば、それに比例して悪い事象もあり得ると推測し、あえて批判の先頭に立ち、暴れて見せ、
(彼が言うほど、悪じゃない)
というコントラストの原理を生み出して、状況を緩和させることもあるだろう。我を見失うほど友人が落ち込めば、それに比例して良い事象も起こり得るのだと鼓舞し、手を差し伸べ、たとえ1人になっても、彼を批判する人間を向こうに廻し、『お前らは、彼のことを語る資格はない』と言って激昂し、闇に隠蔽されそうになる真実に光を照らし、彼の再起の為の道を見出す、手伝いを惜しまないだろう。甘い汁だけ吸って、苦い汁は残す。これは『人間』だ。だが、『友人』ではない。
経集253。