仏教の開祖 釈迦(画像)
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内省
もし『たまたま周りにいた人が友人』なのであれば、幼稚園や小学生低学年の頃遊んでいたはずの人々はどうする。彼らは『たまたま周りにいた』はずだ。だが、気づけば往々にして、赤の他人になっていることがあるだろう。それは、考え方が合わないからだ。合うのであれば、その後も長い間、友人になることはある。 だが、大体合わなくなる。なぜなら人間は、徐々に自我が発達してくるからである。
自我とはある種、性格、人格。自分がどういう風にこの世を生きて、どういう信仰や哲学や信念を信条にし、何を学び、何を目指し、どうやって人生を生きていくかということを決める『ナビ』のようなものだ。
例えばカーナビで、渋谷に目的地を定めたとしたら、共に横を走る車も、同じ目的地を定めている。後の人は途中で別れるだろう。それは、彼らの自我が発達し、意志が芽生え、人生をどう生きるか見つけたからだ。『渋谷以外の目的地』にセットした。別にそれでいい。人それぞれ、この人生をそうやって自由に生きていく権利があるからだ。ここまで考えたら、『たまたま周りにいた』というだけの理由では、真の友に相応しくはないことがわかってくる。
では、『考え方が違う人間は善人友人ではない』『悪の道に逸れた友人を放っておいて自分だけ目的地に進め』ということなのだろうか。いや違う。それとこれとは話が別だ。ここで言えるのは『真の友』は、『たまたま周りにいた』という状況で安易に決まるものではないということ。もし、『間違った目的地をセットし直す』ように促してくれる人がいたならば、彼・彼女のことを『真の友』と呼ばなければならない。
参照文献
経集45。