ムハンマド・イブン=アブドゥッラーフとは(画像)
イスラーム教の開祖。生誕570年。男。イスラーム教の開祖、軍事指導者、政治家。アラビア半島中西部、ヒジャーズ地方の中心都市メッカの支配部族であるクライシュ族出身で、その名門ハーシム家のひとり。イスラーム教では、モーセ(ムーサー)、イエス(イーサー)その他に続く、最後にして最高の預言者(ナビー)でありかつ使徒(ラスール)とみなされている。また世俗君主・軍人としても有能であり、アラビア半島にイスラーム国家を打ち立てた。 (Wikipedia)
ムハンマドは預言者であった。(預言者は、神の言葉を預かり、それを人に知らしめる人を指す。この点で預言者(将来の出来事を予め述べる人)とは異なる)。だが、奇跡は行わなかった。彼は秘密主義者ではなかったわけだ。また彼には正式な学歴はない。彼が不況を始めたのは、40歳を過ぎてからのことであった。彼は自らを神の使徒と名乗り、この世に真の宗教を広めるために遣わされたのだと説いた。だが彼は世間からあざけられ、精神疾患者と決めつけられてしまった。
子供達には石を投げられ、女たちからは汚物を投げつけられたものだ。彼は生まれ故郷のメッカから追い出され、彼の従者たちも身ぐるみはがされて主人ともども砂漠においやられてしまった。
10年間にわたる彼の不況の報酬は、追放と貧困と嘲笑だけだった。だが、それから10年後には、彼は全アラブの指導者となり、メッカを支配し、ドナウ河からピレネー山脈に及び広大な地域に強い影響力を持つ世界的宗教のリーダーになっていた。この宗教(イスラム教)の教えは基本的に三つの要素から成り立っていた。その要素とは『言葉の力』『祈りの力』『神と人間のふれあい』であった。
彼の経歴は今や問題ではなかった。ムハンマドが誕生したのは、メッカの群雄がその勢力を失い始めたころであった。当時のメッカは世界の中心地であった。また、カーパと呼ばれる奇跡の意志のあるところでもあり、そして交易の中心でもあった。
しかし、不健康な土地でもあった。子供たちはベドウィン族(遊牧民)に預けられて砂漠で育てられていた。ムハンマドもそうして大きくなった。彼はベドウィン族の子として継母に育てられ、そこで健康な若者に成長していった。彼は羊をとてもかわいがり、またアーミン(正直者)とあだ名されていた。やがて叔父の紹介でハディージャという名の豪商の未亡人に雇われ、キャラバンの若き隊長となった。そうして彼は東洋一円を旅しながら、異なった宗教の人々とも接したりした。また彼はキリスト教の衰退とその闘争を観察することもできた。
彼が25歳になった時、40歳になる雇い主のハディージャ夫人に望まれて彼女と結婚した。彼女の父親はその結婚に強く反対したが、彼女は父親に酒を飲ませ、酔っているすきに結婚式をあげてしまった。それから12年間、ムハンマドは裕福な商品として人々の尊敬を集めて暮らした。
そんなあるとき、彼は一人で砂漠の中へふらりと出ていった(商業都市メッカのかかえるさまざまな矛盾などに、心満たされない何かを感じていたためと考え圧れている。彼はたびたびメッカ郊外のヒラー山の洞窟にこもり、祈りや瞑想にふけるようになる。)そして戻ってきたときには、コーランの最初の詩文を口ずさんでいた。
610年のある夜、彼が洞窟で瞑想していると、ガブリエル天使が目の前に現れ、『ムハンマドよ、汝は神の使いである』 と告げたというのである。(コーランの96章の冒頭の言葉によると、そのときのいきさつは、ガブリエルが現れて、巻物で彼ののど首を押さえるようにして『これを誦め(よめ)』と言ったという。 これがアッラーからの最初の啓示と言われている)。ムハンマドはそのいきさつのすべてを妻のハディージャに告白した。
コーランは神の啓示の言葉であり、これは、ムハンマドの生涯における最大の奇跡であった。彼は詩人ではなかったし、また語学の才能もまったくなかったが、ガブリエルから授かったコーランの内容を、啓示を受けた通りに忠実に暗記したのである。コーランの文章は、アラビア中のどんな文章よりも優れていた。これは、アラブ民族にとっても奇跡以外の何物でもなかった。彼らにとって言葉は最も素晴らしい最大の贈り物であった。そのため、アラブでは詩人は強い影響力を持っていたほどだ。しかし、コーランは、そのうえに、神の前にすべての人は平等である、と説き、民主国家(イスラム)を建設すべきだ、と説いているのである。
630年1月にカーバの神殿にある360個の偶像を彼がすべて破壊したのは、当時の政治的な動乱の結果ではあったが、それはまた彼の主張でもあった(ムハンマドによるメッカの無血制服の際の出来事)。
イスラムの建設はこうして始まった。消すことのできない炎は、砂漠の外にまで燃え広がっていった。決死の覚悟を持ったムハンマドの軍勢は、たじろぐことなく、一丸となって団結し、死を覚悟して闘った。ムハンマドは、ユダヤ教徒やキリスト教徒たちにも門を閉ざしはしなかった。なぜなら、彼は新しい宗教を興そうとしていたのではなかったからである。彼は確固たる信念で、唯一の神を信ずる人なら、誰でも迎え入れたのである。
もしユダヤ教徒がこのムハンマドの招待を受け入れていたら、イスラムは周辺の世界を征服していただろう。しかし彼らはその招待に応じなかった。そればかりでなく、彼はムハンマドの説く『人は皆平等』という信念すら受け入れようとはしなかったのである。それゆえ、ムハンマドの軍隊がエルサレム軍に到着したときも、その彼の信念のために殺された人間は一人だけではなかった。
その後何世紀も過ぎてから、十字軍がエルサレムを侵略し、男女を問わずイスラム教徒を子供まで殺戮してしまった。しかし、キリスト教徒は一つのイスラムの教えを受け継がなければならなかった。すなわち『大学』を作る必要性についてである。