キリスト教の礎 イエス・キリスト
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私の部下には『THE・あわよくば』という様な、『未練』という名がこれ以上相応しい者が居るのかという人間がいる。何かがあっては浮つき、何かがあっては落ち込み、勝って奢らず、負けて腐らずの正反対の人生を、もうかれこれ私が見ているだけで丸6年以上繰り返して生きている。残念ながらそういう者の人生は、認められない。
孔子も、
と言うが、『宗教』を、自分の自分勝手なエゴを助長させるために『援用』する為に使う様な人間を、私は許さない。彼は無宗教者だが、そのくせ『だからあなたも生き抜いて』をたまに読んでは、元気を貰っているなどと言ったことがある。
それはつまり『宗教』だ。自分を慰めるために、たまたまその本を選んだか知らないが、その本を読んで、慰められ、それで6年間も足踏みしているようであれば、むしろその本を読んで慰められることは、『間違った精神の修養方法』であり、しかもその演じている『自分は宗教とは無関係だ』という的を外した態度を即刻改めるべきである。
その本は素晴らしい本だ。私も読んだ。だが、本だろうが宗教だろうが、それを未熟な人が『援用』してしまっては、どうにもならない。例えば狂信的なファンが、漫画家に対してファンレターを送り、
などと書きなぐり、事件を起こしたらどうだろうか。漫画家はどう思うだろうか。それが『援用(自分の都合の良いように解釈する)』ということである。
人間のこういう自分勝手な考え方、援用によって、宗教もあらゆる教えも事実現象も、捻じ曲げられたのである。本の著者も、この部下の『怠惰を助長させる為』に書いたのではない。
という力強いメッセージを込めてこの本を書いたのだ。立ち向かう勇気、乗り越える覚悟、それらの力強いパワーを本から受け、現実の試練に果敢に立ち向かう。著者が読者に期待するのは、そういう行動である。
自分で言うのはおかしいが、私は人一倍見る目がある。人がまず気づけないようなことに気づくので、むしろいつも浮くぐらいだ。(そんなはずはない。お前が間違っている)と言われるくらいだ。それぐらいど真ん中の的を射る。その私が、丸6年間見て来た。彼の本性は、 『ただの未練くん』 である。
彼が求められているのは『パラダイム転換』である。『未練くんとして誤魔化し、慰められながら、生きながらえる』ことではない。その絶対的な真実に目を向けるのが、遅いか早いかというだけだ。私の場合は、プライドがあった。だから1日で気づき、恩師に告白した。本当に大変だったが、私の人生はあそこから始まったのだ。部下はそれに比べて、6年2ヵ月の月日を『生きながらえて』しまっている。
ヤコボの手紙 第1章にはこうある。
『迷う者は、あたかも波のようだ。拭き来る風に翻弄され、そのつど巻き上げられる海の波にも似ている。そんな者は神から何かをもらえるのではないかと期待するな。 なぜならば、迷う者にはいつも二つの心があるからだ。 そしてまた彼の生活は節操に欠けたものだからだ。』
キリストの言葉を通した内省は、ひとまず今日で終わる。白鳥春彦氏の『超訳 聖書の言葉』が、この内省の参照元であった。29歳~31歳という年齢で彼ら四聖と向き合ったことは、私の人生に大きな影響を与え、そして人生の黄昏時に悔いを残さないだろう。
ヘブライ人への手紙 第12章。