キリスト教の礎 イエス・キリスト
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『偽善者』、そして『綺麗ごと』というのは、みんな好きではない。 私も好きではなかった。だが、言葉の意味を知らなかったから、この言葉が存在するその真意を、正確に把握していなかった。
まず、『偽善』というのはこういう意味だ。
うわべをいかにも善人らしく見せかけること。また、そういう行為。「―に満ちた社会」⇔偽悪。本心からではない、うわべだけの善行。↔ 偽悪
つまり『偽善者』というのは、『表裏的な人間』ということ。また、『綺麗ごと』というのはこういう意味だ。
表面だけを立派にとりつくろうこと。見かけや口先だけ体裁を整えていること。実情にそぐわない、体裁ばかりを整えた事柄。
これも同じく、『表裏的な人間』だということなのである。
そして聖書にもこうある。
『偽善者よ、あなたたちは石灰で白く塗られた墓の様だ。外側はいかにきれいに見えても、内側は汚れている。中は死人の骨と、あらゆる不潔なものに満ちている。』
私も『綺麗ごと』を言う人間や、『偽善者』はなんとなく嫌いだった。いや、大嫌いだったと言っていい。だから自分がそれに成り下がることは、決してしないと誓っていた時期があった。だが、いざ自分が人生を真正面から生きようとすると、かつて『それは綺麗ごと』としてきた言葉を言わなければならない場面に直面した。
そのとき、私は初めて辞書を開き、自分が今からやろうとすること(綺麗ごと)の意味を調べた。すると驚くことに、私が今からやろうとするその行動は、『綺麗ごとではない』ということを知った。つまり、本心からそう思っているのであれば、それは綺麗ごとにはならない。ということを知ったのだ。そして『偽善者』という言葉の意味も知った。
それ以来、私は人の目を気にして生きることはなくなった。おそらく多くの人も、かつての私と同じように言葉の意味を理解していないで生きている。そしてそれはどういうことかというと、『自分の行動の善悪の判断がつかない状態で生きている』ということになるから、 気づかないうちに間違った行動を取ってしまったり、 あるいは、意味を知らないで様々な言葉を言い放っているということになるのだ。
私は当時、やはりすぐに、
と言われてとても傷ついた。だが、私はこう考え、乗り越えることが出来た。
彼はかつての私と同じだ。言葉の意味を知らないで使っている。そしてそういうことの積み重ねで彼は、自分のやっていることの罪深さに気づいていない。つまり、もし気づくことが出来たならこんな彼も、 きっと自分の罪を悔い改め、損な役目を買って出た私に感謝してくれるだろう。
それがいつかはわからない。だが、『すぐに相手に理解されて、即効性がなければ言わない』というのでは、私は本当の『偽善者』だ。本当に相手のことを思っているのであれば、たとえ何を言い返されても、どんな批判を食らっても、相手の為に、言うべきことを言わなければならない。
こうして私は、『偽善者』の問題を乗り越えた。もちろんその後も、そういう色眼鏡で見る人間は後を絶たない。 それが人間だ。そういうものなのだ。だが、あのとき振り絞った勇気は、耐え忍んだ努力は、誠意は、その後の波乱万丈な人生の生きる根幹に根付き、 今も尚私を、心底から支えてくれている。
わが社の社員にも、この『偽善行為』をする者が後を絶たない。家庭内でもそうだ。そう。多くの人間は、まるで『デフォルト(初期設定)』が『偽善者』になっている。私は”それ”に真っ向から立ち向かう覚悟である。そして、いずれ繋いでいく私の子孫へのデフォルトを立派なものにするために、自分の人生を、もっと真剣に、力強く、生きなければならない。
マテオによる福音書 第23章。