キリスト教の礎 イエス・キリスト
Contents|目次
やさしくやわらかな言葉は、どんな怒りをも砕き鎮める。頑なな怒り、頑迷な人格、断固とした確執、どんな”剛”をも、”柔”は打ち砕く。『北風と太陽』を思い出してみるのだ。『剛よりも柔』ということは、『押してダメなら引いてみろ』ということ。『諦めるしかない』なら、『自分の信念を突き進む』べきであり、『支出を増やせない』ときは、『投資を増やす』べし。柔軟性や、柔らかい言葉、そして柔らかい考え方は、ダメだと思っている事態を覆す、特効薬だ。
私の経験でわかりやすい話がある。ボクシングジムに通っているとき、私は友人と三人だった。あるとき見慣れない人間がいると思ったら、むしろそっちの方が古株だということを知る。そして三人の見慣れない顔の中で、彼は私をターゲットにした。『いびる』ターゲットだ。
それはなぜか。私の友人は、一人は腕に入れ墨を入れ、それを見せつけていた。もう一人は、髭を無精に生やし、プラチナのネックレスをぶら下げていた。前者は一つ年上だが、時折私に敬語を使う人間で、後者は私の後輩である。これで我々の人間関係はわかったはずだ。それなのに、彼は『何の見栄も張らない私』を短絡的に解釈し、『一番下っ端』だと踏んだのである。
私は『カミオカンデ』のときに話したように、『ミスターサタン』に成り下がることは恥だと思い生きてきた。『孫悟空』であるべきだと、生きてきたのだ。まさに魔人ブウのときのそれと同じ現象が起きたのだ。私の信念として、『弱いくせに恰好だけつける』ことは、恥だと思っていた。だから髪もセットしないし、お洒落もしない。当たり前だ。私はボクシングジムに、弱き自分を打ち殺す為に通っていた。強くなるために『余分な一切の感情』は、持ち合わせていないのである。
執拗に『いびる』彼は、早稲田大学出身だということも手伝っているのだろうか。 見下し方が、慣れている。わざと私の前でシャドーボクシングをしてみたりして、挑発しているのだ。
私には選択肢がある。彼を袋叩きにするという、選択肢が。だが若き日の私も、それが器の小さいことだということはわかっていた。彼は、その2時間弱のトレーニングの間で、二人の友人が、私を敬う姿をちょくちょく見ていたのだろうか。それとも、微動だにしないで平静でいる、私を不気味だと思い始めたのだろうか。後になればなるほど、いびりは少なくなっていた。
そしてトレーニングの終わり、私の人間としての器が問われる瞬間が来た。彼をどうするか。私は何もしていないのに、理不尽にいびられたのだ。しかも、こっちは血気盛んな生き方をしてきた男である。だが、私には『悟空』がついていた。私には『恩師の誇り』が植えついていた。 彼に渡したのは、『鉄拳制裁』ではなく、『ポカリスエット』だったのだ。
私はそう言って彼にドリンクを渡し、彼は何も返す言葉も見つからずに、無言でそれを受け取った。次の日から彼が姿を現すことは無かった。いささか乱暴な過去の経験ではあるが、ここから学ぶことは大きいはずである。
格言の書 第25章。