キリスト教の礎 イエス・キリスト
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喜びを告げる者、待ち焦がれた平和を知らせる者、よい便りを持ってくる者 救いを告げる者、いっさいを真理(神)が支配すると伝えに来る者は、あまりにも眩しく、光り輝いている。まるで人間の絶頂だ。赤ん坊が無事に生まれたとき、大きな仕事が成功したとき、長い争いが終結したとき、大事な人が無事に生還したとき、我々は絶頂の喜びを知ることになる。『真理の上に喜びを見出す』という意味はどういうことかというと、これらすべてが、真理に則っていなければならないということだ。
その赤ん坊は本当に二人の愛によって誕生したのか、その仕事は倫理に反していないか、その争いの終わらせ方は正しかったのか、その生還した人が行っていた場所や動機は不純ではなかったか、当然、これらが真理の上に則っていなければ、本当の意味で『絶頂』とは言えない。同じように見えて、まるで『光と闇』だ。あくまでも『真理の上に則って』いなければならない。真理に反して造り上げた幸せは、所詮虚像である。その道を歩いてはならない。引き返さなければならない。
わかりやすい例がある。私の話だ。私は学生時代、夏休みが大好きだった。それは皆も同じだろう。だがある日私は、学校をさぼるようになった。『夏休みの解放感』を、ズルをして手に入れようとしたのだ。
最初は確かに解放感と自由を覚えた。そして夏休みが来た。皆、楽しそうに夏休みの計画を立て、下校の足取りも軽かった。しかし、私は全く楽しくなかった。なぜなら、『毎日が夏休み』だったからだ。私はこれを『夏休みの違和感』と名付け、10年以上その理由を心の中で探し求めていた。実はこのテーマはとてつもなく重要なテーマだったのだ。
その後の波乱万丈な人生の中で、なんとなく感覚では掴みかけていたのだが、理屈で説明できない日々が続いた。あるとき経済雑誌『PRESIDENT』にて、経済用語に『限界効用の逓減(げんかいこうようのていげん)』という概念があることを知った。限界効用の逓減とは、文字通りの意味である。
『効用(効果)には限界があって、それは、逓減していく(だんだん減っていく)』
という意味である。例えば仕事終わりの疲れた体でビールを飲むと、格別に美味しい。だが、二杯目、三杯目と飲むにつれて、一杯目に得た感覚が薄れていく。つまり、『絶頂』が逓減していくのだ。
私の中で『夏休みの違和感』を理屈で説明できるようになった瞬間だった。その後、更なるトドメとして、ノーベル経済学賞を取ったダニエル・カーネマンの著書、『心理と経済を語る』を読んだときに、それは決定的になり、これはノーベル賞ものの研究対象であることを知った。カーネマンが言うのは、『その人の心理状況によって得られる効用が違う』ということ。
ここに100万円があったとしよう。だがこの100万円は、経済学的に言えば価値は同じだが、大富豪と大貧民では、得られる効用が違うのだ。水もそうだ。砂漠で遭難して今にも飢え死にしそうな人がオアシスを見つければ、天の恵みだと涙を流して感謝するが、都会で水たまりや川を見つけても、単なる日常の景色にしか見えない。つまり、『価値』とは、『得られる効用』とは、『絶対ではなく、相対』なのである。『本当に美味しい水』を飲めるのは、どういう人間だろうか。このテーマは、あまりにも重要である。
つまり今回のキリスト(聖書)の言葉が指し示すのは、
『本当に美味しい水を飲む人間の、なんと美しいことか』
ということなのである。毎日ズルをして、私利私欲に溺れ、贅の極みかつ、自堕落な人生を送る人が、真理から外れる人間が、『本当に美味しい水』を飲めるだろうか。私は飲めなった。いや、飲んだつもりでいたが、それは『本当に美味しい水』ではなかったのだ。
参照:『イザヤの書 第52章』
イザヤの書 第52章。