キリスト教の礎 イエス・キリスト
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『金儲け』とは、『罠』である。正直、『儲ける』という言葉は廃れすぎて、使わない方が良い。どう見ても、もう『拝金的』な匂いが抜けきれない。
という人は多いが、識者でもない限りその言葉の真意を捉えられない。大体は、歪曲して解釈する。小人から小人へとそれが伝言され、知らぬ間に歪曲、悪化し、末端の人間にその言葉が届くころには、
俺が金儲けして何が悪いんだ。金こそがすべてだろうが
という考え方に至ってしまうだろう。
『義利合一』と言えばいいのだ。少なくとも私が最初からこの言葉、この概念を知っていたら、拝金的な人生を送ることは無かっただろう。どうすればいいかわからなかったのだ。そこに、この言葉が道しるべとなって現れた。
『義』を重んじながら『利』を追い求めることは出来る。その道では確かに、緩やかにしか駆け上れないかもしれない。だが、それが『成長』というものだ。バーンと弾けて一気に突き上がり、弾けるのも早い『膨張』とは違うのだ。そこを見誤ってはならない。拝金的な人生とは、『膨張』を求める人生なのだ。
長野にある伊那食品工業というのは、実に48年もの間、右肩上がりで黒字を出し続け、成長を続けてきたという。その間にはもちろん、『膨張』の誘惑があった。
だが、目が眩む周囲の意見に逆らい、社長は言った。
『売り上げに目が眩み、そこに展開するのはいいが、それじゃ、食品の品質の維持に手が回らなくなり、一番大切な現存のお客さんをないがしろにすることになる。だからその件は断る。』
それは英断だった。後に、あの世界的企業、トヨタの会長、社長がわざわざ会社を見学に来るほど、この会社は立派になった。彼らがそこで『膨張』の道に心を支配されていたのなら、今の未来は、築けなかったかもしれない。『義利合一』とは、そういう人生の生き方だ。
ティモテオヘの第一の手紙 第6章。