キリスト教の礎 イエス・キリスト
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たとえば、『投資』ということで考えてみるのだ。100万円の元手がある。そのうち、50万円を投資に使い、50万円を私利私欲に使う。それが何らかの形で100万円となって手元に返ってくるとしよう。惜しみながら蒔く人は、そこで投資に使う金額は、『また50万円』だ。そして50万円を私利私欲に使う。もう一度100万円となって帰ってくる可能性は100%ではないが、往々にしてそうなるとしたとき、同じことが繰り返される。
だが、100万円のその元手を丸々全て投資に使う人はどうだ。彼の場合、元手をすべて使ってしまったので、手元には残らない。私利私欲を満たせないから、質素な暮らしを強いられるだろう。だがどうだ、その代りなんと、200万円になって返ってくる。少し待っただけで、少し人よりも辛抱しただけで、彼は前者よりも多い収穫を得ることが出来たのである。
前者の投資・生産方法を『単純再生産』、後者を、『拡大再生産』という。そう、後者の彼は、その元手200万円を、また丸々投資に使い、次の収穫の時、400万円を手にしたのだ。『その投資方法』には当然『知性』がいる。まさか、競馬やパチンコといったギャンブルを投資だと思う人はいるまい。きちんと、『この話で筋が通る投資方法』を見つけなければならない。『浪費』と、『投資』の意味を、はき違えてはならない。
もちろん、教育で考えてみてもそうだ。惜しみながら、余力を残し、つまり手を抜いて面倒がって、真の教育などできない。対象者が成長したとき心の底から喜べるのは、全身全霊、命を懸けて教え、育てた人間だけなのである。ここで求められる人間能力は、『見栄の支配』、『お金の支配』、『時間の支配』、『知恵の支配』である。これらすべてを支配、つまり自分の身体の一部のようにコントロールできた時、道は見えるだろう。
コリント人への第二の手紙 第9章。