キリスト教の礎 イエス・キリスト
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以前ここにも書いたが、
人は何かと、理由をつけたがる。論理的な理由。説明がつかないこと、つじつまが合わないことは、とても居心地の悪いことだと思うからだ。
遥か昔、地球がまだ丸いと知らなかった頃、人間は、この地球を大きなゾウや、木が支えている平らな土地だと思っていた。ある土地では『雷、地震は神の怒り』、またある土地では『雨、快晴は神のご慈悲』、奇病、神隠し、呪い、祟り、裁き、説明がつかない不可解な現象を全て『神の怒り』のせいにし、生贄、魔女狩り、お供え物、供養、お祓い、占い、念仏、祈り、実に、幾多もの習わしが生まれ、浸透した。世界各地によって信じられる神々の姿かたちは違うが、しかし人は共通して、『神』の存在を奉ったのだ。
聖書にある『知恵の書 第13章』には、私のこの見解とほぼ同じ内容が書いてあるが、一つだけ違う部分は、『創造主論』を根底においているか、いないかということである。私はこの『創造主論』について、あるいは『宇宙の果て』について、漠然としか考えないことにしている。有限の人生の中、それを考えるのは時間がいくらあっても足りないからだ。答えを突き詰めるまで諦めない性格も手伝って、答えが出ないことを追う時間は、無駄だと判断している。それをしている間に、他のやるべきことがおろそかになり、この地球で生きていくことが出来なくなるからだ。
だが確かに、私はこの章に書いてあることについて、世のクリスチャンや、その他の敬虔な信仰者に言いたい。
『目に見える物だけに囚われるな』
クリスチャンである私の親も、よくその言葉は言っていた。おそらく、信仰者同士で聖書を持ちより、交わりの中で実によく出てくるテーマなのだろう。子供の頃、何度聞かされたかわからない。いや、それ自体はいい。その考え方自体は、確かに合っている。だが、私の親は、確かに愛しているが故、私に信仰を勧めていた。だが、それはほとんど、『洗脳』や、『強要』に近いものがあったのだ。
それだけではない。彼らは、『隠蔽』もしたし、『捏造』もした。自分たちが悪いのではなく、自分たちの愛情を理解できない、お前が悪いのだという状況に、必ず話を持っていく『責任転嫁』をしたのだ。両親二人に協力され、そう追いやられた子供には、道は二つしかない。『心は求めていないのに言うことを聞いて教会に行く』か、『心に従って、親に逆らうか』である。
彼らは後者を選択した私に対し、『反抗期』だと言った。だが本来『反抗』とは、『基準から逸れる』という意味。では、『基準』とは?『親』?では、暴力団や育児放棄したり虐待ばかりして、いつでも金を無心し、ギャンブルと酒に狂う、人でなしの『親』も基準?『神』?どの『神』?どれか一つの神を基準にしたら、その他の神の信仰者がすべて『反抗者』になるが、それでいいのか?
そう。私が言いたいのは、敬虔な信仰者も含めたすべての人に対して、また、この言葉を念仏のように唱える機会が多い人に対してだ。目に見えるものだけに囚われ、真に大切な人の気持ちや、『心』を、軽んじてはならない。テレパシーを使えるわけでもないのに、見識を磨いてきたわけでもないのに、結婚をして、子供を産み、信仰という絶大な力をバックボーンに抱えただけで、『神』に、あるいは『神の召使い』に成り下がってはならない。なるのは自由だが、それなりの『代償』を払うことになるだろう。
それでもエゴ(神)を取るか?それとも、神を見ない者がエゴイストか?その答えは誰にもわからない。一つだけはっきりしているのは、『目に見えるものだけに囚われてはならない』ということだ。
追記
ちなみに、私の父親は17歳のときに亡くなり、母親はついこの間、かつて私に信仰を強要したことを認め、悔い改めた。しかしそれについて面と向かった謝罪はなく、自然にそういう方向に転換したのである。
私はそれについて言及をしない。彼らを責めてはならない。彼らは弱く、そして愛に溢れていただけなのだ。しかし、彼らが正しいわけでもないのだ。私は子として計り知れないほどの葛藤をしたが、今振り返って、彼ら両親の下に生まれたことを、感謝したい。そして、学んだことを、自分の子孫に伝えていきたい。
知恵の書 第13章。