キリスト教の礎 イエス・キリスト
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お金、給料、報酬が増えても、生活水準を変えない人間がお金持ちになる。それもそのはず、余った分はそのまま貯金に回すか、『投資』として資産を運用するから、お金は減らない。増えるのだ。
だが『浪費』とは、若ければついついやってしまうだろう。大人たちの真似をしてお酒も夜通し飲みたい。キャバクラやクラブで高級な酒を開けてみたい。高級ブランドに身を包んで、セレブの真似事をしてみたい。高価な時計や車を買って、人に見せびらかしたい。毎日豪華な食事を堪能し、贅沢三昧の派手な生活がしたい。そういう欲望が頭によぎるし、それが『夢』だと妄想する。だが、『夢』だけに留めておくのが正解だ。それを実際に実行すれば、悔いを残すだろう。この一度しかない人生に悔いを残したくないからそういう生活を夢見るのに、実際には、その行動で悔いを残すのだ。
では人間とは、快楽を味わってはいけない生き物なのだろうか。しかし快楽を味わってはいけないなら、食事をしてはいけないことになる。人に思いやりをかけてはいけないことになる。それらも全て、快楽物質が脳内に放出される行為だ。人は快楽を求めてはいけないのだろうか。いや、そうは言っていない。快楽に、『克てる』かどうかが問われているのだ。
『克己心』とは、自分の弱き心に打ち克つ強い意志を指す。『快楽に克つ』というのは、『その道が絶望に続いている道だということを知っておきながら、その誘惑に負け、道を踏み外すことのないように、自分を見失わない』ということなのである。その金を使って、更なる借金地獄(ラットレース)にはまらないか。その異性を追って、人生を棒に振るわないか。その暴飲暴食を繰り返し、寿命を縮めないか。その快楽物質を飲み込んで、人生に後遺症を残さないか。その刹那的な時間の使い方は、人生に悔いを残さないか。
by 岩淵克郎
一日を真剣に生きる、とは、もちろん、快楽に身を任せることではない。一生を気楽に生きる、とは、もちろん、思慮浅く生きるということではない。一日を真剣に生きられなかった人間は、一生を気楽に生きることなどできない。常に、楽をしたツケを払い続ける人生を強いられるからだ。一生を気楽に生きる俯瞰を持てない人間は、一日を真剣に生きることなどできない。時間の在り方を見誤り、刹那的な人生を強いられるからだ。
富や快楽に支配されるな。逆に、支配すればいいのだ。
シラの書 第19章。