キリスト教の礎 イエス・キリスト
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内省
レビの書 第25章にある、『兄弟を助けよ』というテーマだが、ここでは『無償』で助け、自立出来るまで支えてあげ、お金を貸す場合でも利息を取るなとある。これについてどう思うか。『兄弟』の定義の問題だ。聖書とは、全ての人間に当てはまる言葉でなければならない。その辺に普通にいる、普通の兄弟の定義だけでいいなら、この言葉はなんと慈悲深く、博愛的で、暖かい、愛に包まれている言葉だと思うだろう。
だが、その『兄弟』が、暴力団や、マフィア、あるいは歪曲した心の持ち主で、例えば貸したお金で武器や麻薬を売ったり、子供や売春婦を売ったりするための資金源にするということであれば、これは当てはまるだろうか。あるいはそうとは知らず、兄弟に騙され、そういう結果になってしまった場合はどうか。
いや、当てはまるはずがない。
そうなると、実の兄弟でも、ここでいう『兄弟』には当てはまらないのだ。だがクリスチャンは、自分たちの、特に信仰者同士の間で、『兄弟、姉妹』と呼ぶ。それはどういうことかというと、『みんな、アダムとイブの子孫なのだから、同じ兄弟、姉妹なのだ』という考えだからだ。
進化論と創造主論について話すとあまりにも長くなるから割愛するが、だとしたら、彼らのような捻じ曲がった兄弟に対しても、『兄弟』と認め、その支えをしなければならない。そのせいで、人生を台無しにすることになるだろう。犯罪者の兄弟として未来永劫顔をさらし、自分にもし子供がいても、彼らも皆巻き添えだ。
いじめられるかもしれない。自殺するかもしれない。だが、この言葉の教えを守るなら、それを成し遂げなければならないのである。そう考えたら私は、この言葉は『視野が狭い』と判断する。あるいは、『これが視野が広いということ』なのだろうか。『人生を台無しにする』という言葉の正体が、『兄弟をないがしろにする人生こそ、台無しになった人生だ』ということになるのだろうか。
ソクラテスは言う。
『子供をも、生命をも、その他のものをも、真理以上に重視するようなことをするな。』
私が言いたいのは、こういうことだ。もちろんキリストだって同じことを言うだろう。私のように理解するのは、聖書に対しての冒涜だ。聖書を読むなら、歪曲して解釈してはいけない。そのためにあるなら、聖書はときに、悪魔の書にさえなり得るのだから。
『真実の兄弟に、手を差し伸べよ』
だから私は、そうタイトルをつけた。真実の対義語は、エセ(似ているが、そうではないもの)だ。エセ兄弟には、制裁を食らわせることが、愛情になるのである。そこを決して間違えてはならない。
参照:『レビの書 第25章』
参照文献
レビの書 第25章。
関連する『黄金律』
『他と違うことは恥ではない。誇りだ。』
『どれだけ生きるかではなく、いかに生きるかが重要なのだ。』
『この世には、自分にしか歩けない道がある。その道を歩くのが人生だ。』
『「生きる」ということの本当の意味とは。』