キリスト教の礎 イエス・キリスト
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私は吃音症の社員を抱えているからわかるが、例えば1時間、ずっと指導助言を続けることが、どれだけ難しいか。その間に、相手が吃音症だということを忘れて、
(なんでこいつは黙ってばかりいるんだ)
と、異様に腹が立つこともある。
(病気を盾にして、一生喋らないつもりじゃねえだろうな)
と、頭に血が上ることもある。1時間という時間は、そういう時間だ。私の場合、2時間、3時間ということも稀ではない。その中で、克己心を持ち、平常心を持ち、後で振り返ってつじつまの合わないことを言わないのは、容易ではない。私はその社員に合う日は普段摂らない高カロリーの外食をするのに、体重が1キロは減るぐらいだ。それぐらい、エネルギーを消耗し、魂を消耗する、難易度の高いことなのだ。
人は、喋らない方がいい場合もある。例えば一年間、口数が少ない人がいたとする。その人に係る人々は、陰でこそ噂話をしたり、妄想はするが、実際のところは、彼の素性を知らない。主張も、言い訳もしない彼に対し、人々は半信半疑になるのは当然だ。
だが一年経ったある日、彼の口数が少ない理由を知った。彼は以前、自らのお喋りでもって、嫌な体験をしたというのだ。友人だと思っていた親しい人間に、軽く扱われたのだ。だがそれは当然、自分が蒔いた種だった。自分の口が軽く、軽薄で、何でも冗談話に変えてしまうその明るい性格が、裏目に出たのだ。
彼としては、彼なりに周りの人々に、ストレスを与えないよう、配慮していたつもりだった。周りの人が嫌なことを忘れ、笑顔になれるように、努力していたつもりだった。彼は失望し、友人を失い、今に至っていた。自分が蒔いた種だったのだ。それを聞いた新しい人間関係の人々は、彼をどう思うだろうか。それでも自分たちを軽んじたと思うだろうか。それとも、重んじたと思うだろうか。
彼はその後も、口数は少ないままだが、益々人として尊重され、丁重に扱われたのだ。自分たちとの関係に、そこまで深い理由づけをしてくれていたことに気づき、人々は感動を覚えていた。
(大切にされるって、こういうことなのかもしれない)
そう思う人も、いたのだという。それも、自分が蒔いた種なのだ。人は、喋らない方がいい場合もある。
コヘレットの書 第5章。