キリスト教の礎 イエス・キリスト
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情報とは、歪曲する(ねじ曲がる)ものだ。それぞれの情報提供者の都合のいいものに歪曲していくのが、情報というものだ。その中で、真実を見極める力を持つことは、非常に重要な能力になる。その能力を、『見識』という。
だがこの『見識』というものは、実に類まれな経験を積まなければ身につかない。『知識』が不足している人はもちろん、平々凡々な人生を生き、当たり障りなく、無難で、対立を恐れて、八方美人に成り下がり、『自分は平和主義だから』と正当化しているような人間には、当然身につくはずもない。
太陽の陽が差す、『浅瀬』で、”海”を知った気になってはならない。 ”海”とは、太陽の陽が届かない、深い深い海の底、暗く、寒く、圧迫され、ヘドロのような泥がこびりつく、『海底』も含めて、”海”なのである。
『浅瀬』は、子供でも安全だ。だが、『海底』とは、まず普通の人では生きていけない。『浅瀬』には、そこにいるすべての人に平等に、太陽が光を照らしてくれるだろう。だが、それ以上のこととなると、太陽は面倒を見ない。そこにいるすべての人に、光を照らすだけだ。森林に行ったら陽の光は遮られ、深海に潜ったら陽の光は届かない。限界が有るのだ。
だが、自ら『海底』に潜った者は、どうだろう。最初は当然、陽の光が届かない場所で、迷い、悩み、苦しみだろう。だが、『真珠』は、海底にしかないのだ。森林だろうが、深海だろうが、この世の陽の届かないすべての場所に行っても、自分の行くべき道を光り輝き照らしてくれる、そんな『真珠』は、そこにしかない。
自分は人生の死の淵で、その『真珠』を見つけた。そう心底から言える人は、『見識』を身につけた人だ。そうではない人。何もしなくても、安全なその場所で、そこにいる人全員に差される陽の光、流れてくる情報、これだけにしがみつき、あるいは目を配らないような人は、『見識』がない人だ。
こういう言葉がある。
by小林多喜二
つまり、『浅瀬』にいるときは、見る目がなかった。暖かい太陽の陽の下で、ある種の魔法にかかっていた。自分の理想とする、『平和』という幻を見ていたのだ。だが、『海底』に落ち、気が付いた。あれは、幻だったのだと。人間の表面にまかり通る表情は、必ずしも真実と等しくはないのだと。
自分の人生を、太陽の陽の光に任せきりではならない。自分だけの光を手に入れ、それに従って生きなければ、人生のあらゆる選択肢を、見誤る。こういうことを考えたとき、この言葉の意味が、深く心に染み渡るはずである。
シラの書 第19章。