キリスト教の礎 イエス・キリスト
Contents|目次
内省
私は10代前半までの顔と、その後の顔が明らかに違う。目の大きさ、目つきを含めた表情や態度、それに体格、人格、立居振舞等が、全然違うのだ。当たり前と思うかもしれない。子供から、大人になったのだから。だが、そうじゃない人も大勢いるだろう。いつまでも変わらない人も大勢いる。
それに、なぜ子供から大人になると、それらが変わるのか。そもそも、『大人』とは、どういう人間のことを指すのだろうか。会社の金を横領したり、人や会社を破たんに陥れたり、嘘、ごまかし、隠蔽でもって信頼を損ねるような人が、『大人』と言えるのだろうか。そう考えたら、『大人』に”成る”人は、全ての人間ではない。『大人』の皮をかぶった、子供は大勢いるのである。大人と子供の区別としてわかりやすいのは、『責任感の有無』である。責任感が有るか無いかで、大人か、子供かというのは見て取りやすい。
では、私の話に戻ろう。私はなぜ、変化できたのだろうか。私に一体何があったのだろうか。それは、あまりにも内容が濃すぎて、ここには書ききれない。だが、本当にいろいろ、あったのだ。まず、大黒柱である父親を亡くし、とある事情で死に目はおろか、葬式にも出られなかった。これだけで、私に起きた変化が生半可なものではないことがわかるはずだ。
私はよく、『甘えだ』と言われていた。その言葉を聞くのは本当に嫌だったから、それに対していつも、『甘えじゃない』と言い返してきた。
(周りにだって責任はあるだろう。それをすべて、俺のせいにするな。)
と、いつでも責任転嫁のことで頭がいっぱいだった。しかしその時代は、責任転嫁をすればするほど、いつだって周りから『子供だ』と見られてばかりいたのだ。その後”いろいろ”あって、あれだけ嫌がっていた自分の『甘え』を認め、自ら『自分は甘えていた』と公言するようになってから、次第に、状況は変わっていった。まず私の考え方が、
- 『甘えていた』
- 『それは男としてとても女々しくて、醜い』
- 『だから今後は厳しくしなければ』
- 『人に言われるのが嫌なら、自分で自分に厳しくしなければ』
- 『言い訳などするな。無様だ』
- 『男がやるべきことは、何を代償にしてもやり遂げろ』
などという考え方に変化するのに時間はかからなかった。そしてそのあと、私への周囲の評価が変わったのだ。
- 『お前は状況が困難であればあるほど力を発揮する』
- 『お前のような抜群な少年が昔もいたが』
- 『君の潜在能力が見たい』
- 『このままじゃ宝の持ち腐れだよ』
聞いたこともない私への高い評価のオンパレードだった。そして私はその評価を得て更に、
(この期待を、信頼を裏切ってはならない)
と思うようになり、ますます自分の人生を真剣に生きることの責任感を、養っていったのである。その後の私と言ったら、
- 『良い目をしてる』
- 『良い顔をしてる』
- 『格好いいな』
という言葉を何度聞いたかわからない。それまでは、『甘えたガキ』だと言われていたのだ。これは明らかに、私が『子供から大人』へと昇華した証拠なのである。
よく、見てくれに対して生まれつきの先天性の運命として、野次を飛ばして卑屈になる人間を見かけるだろう。だが、本当にかっこいい人間の生き様とは、決して見てくれの表層的な部分だけでは評価できない。覚悟、決意、信念から形成される、佇まい、立居振舞、態度、表情などが、総合的に評価されるのである。卑屈になって言い訳ばかりしている人は、その時点で自分の”心”が、腐りかけているのかもしれない。
参照文献
シラの書 第19章。
関連する『黄金律』
『人間が戦うべき相手は外にはいない。「内」にいるのだ。』
『アウトサイド・インではない。インサイド・アウトだ。』