キリスト教の礎 イエス・キリスト
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『今ここに生きている犬は、とうに死んでしまった勇猛果敢なライオンに勝る。』
コヘレット第9章にあるこの言葉を、正確に理解できなければ、危険だ。
例えば究極の場面で、順風満帆な人生を送り、心身ともに健康で、一生の伴侶とも出会い、新しい命も授かったばかりの幸せの絶頂にいる一人の青年が、罪のない小さな子供が死に直面しているのを目の当たりにしたとき、自らが犠牲になり、その子を助け、命を落とす。そうなれば、彼は立派な『勇猛果敢なライオン』である。
一方、その近くで悪質な仕事をする取引先と悪だくみの話をし、チャラチャラとどこぞの女といちゃついた、確かにそのシーンに直面したもう一人の関係者がいる。彼は当然、”見て見ぬフリ”をし、利己に走った。そうなれば、彼はもちろん『今ここに生きている犬』である。
それなのに、『勇猛果敢なライオン』が、『今ここに生きている犬』より格下?
当然、意味が違う。
聖書を読むと、紀元前に書かれたということも手伝って、キリストを”神”だと崇めることが根底にあるため、しばしば理解に苦しむことがある。だが、私の知人の牧師は、『聖書は理解するものではない』と言う。つまり、身を任せるもの。そして、『慰め』こそが、キリスト教の教えのエッセンスなのである。
そう考えれば、この言葉の意味もまた違って見えてくる。この言葉は、『自殺をするな』『生きることを諦めるな』ということなのだ。どんなに自分の周りに自分より優れた人がいても、どんなに自分の人生が哀れで、惨めに感じることがあっても、決して自分の人生を卑下し、諦め、死に急いではならない。そう、慰めてくれているのだ。
それはもちろん、前述したような『今ここに生きている犬』に成り下がってしまった、あの傍観者の彼に対しても平等だ。彼があの後、あれからしばらく経った後でもいい、そのことについて思い出し、罪の意識を懺悔し、残りの人生の生き方を葛藤し、内省するようなときがくれば、当然、彼にも平等に、慰めてくれる。
それが、キリスト教の教えだ。キリスト教の、”愛”なのだ。
コヘレットの書 第9章。