キリスト教の礎 イエス・キリスト
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どういう意味だろうか。一見すると『これ以外にない』などと、他にもありそうなものだが。
明らかに不健全なものも例に挙げたが、まっとうな例を挙げても、枚挙に暇がないように思える。
だが、見逃してはならない。”心から”楽しむという言葉を。心から仕事を楽しんでいるかどうか、自問してみるといい。それに当てはまらない人は、拝金的か、金に心を、人生を支配されているのかもしれない。
仕事をすることの報酬とは、決して『お金』だけではない。この意味を理解するかしないかで、人生は大きく変わる。もう一度上に挙げたすべての快楽、娯楽を、『仕事』を10年やらないで行ったときのことを、想像してみるのだ。本当に楽しいだろうか。あるいは、脳科学的に見て『報酬系物質ドーパミン』は、『仕事』をしないで挙げたことを行って、本当に放出するだろうか。本当に人は、『心から仕事を楽しむ』ことを疎かにして、幸福を得られるだろうか。
私はこのことについて、14歳の時、葛藤したことを覚えている。 タイトルは、『夏休みの違和感』。学校をさぼってばかりいたあの頃、夏休みになって、楽しそうにいろいろと計画をしている同級生たちを見て、違和感を覚えたのだ。
(つまんねえ。なんでつまんねえんだろう。夏休みって、楽しいんじゃなかったっけ…)
このテーマの奥は、深い。プロスペクト理論などでノーベル経済学賞を受賞した、ダニエル・カーネマンは言っている。
『効用の最大化をするには、ある手順を踏まなければならない』
つまり、『100万円』は、ただそれだけには何の価値もない。お金に飢えている人には幸福の材料だが、お金を掃いて捨てるほど持っている人や、お金の全く通用しない環境では、その価値は著しく落ちる。『水』もそうだ。砂漠で水に飢えている人はオアシスを『神の奇跡』だと崇めるが、都会の町中で川や池を見つけても、多くの人は足も止めない。『汚い』と思う人もいるだろう。
もうわかったはずだ。上に挙げたような例を心から楽しむためには、『仕事(義務、一定のストレス、我慢、責任)』が必要なのだ。その『仕事』をもし、心から楽しむことが出来たならどうだろうか。キリストはその真理を、紀元前に説いたのである。
コヘレットの書 第3章。