キリスト教の礎 イエス・キリスト
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内省
つまり、土壇場で本性が変わらない人間なら、傾聴に値するのだ。ルカによる福音書 第22章の『ペトロと雄鶏』は有名だが、この話の様に、人間は、自分の身が助かるというのであれば、平気で普段、『友だ』、『師匠だ』と言って媚びへつらう人間を、売る。
なぜなら彼らは、本当に彼らの事を尊敬しているのではなく、彼らの事を、『自分の人生を充実させるためのアイテム』か何かだと思っているのだ。そして、表層上では良い関係を装い、キープするが、実際の部分では、『利用』しているという自負がある。裏と表で顔が違う。これを『表裏的』と言う。今度、表裏的な人間かそうでないかを見極めながら、注意深く人と話をしてみると良い。恐ろしい事実に、ひしひしと気づいてくるのを思い知るだろう。
何しろ『人間』とは、往々にして表裏的なのである。
だが、臆する必要はない。人間など、最初からそういうものなのだ。最初からそういうものだと知ったなら、幾分か気は楽になるものだ。それに、そうじゃない人も中にはいる。あるいは、(そうなりたくない)と思う誠実な人もいるのだ。そういう人を『友』とするべきである。もしこの話が理解できないなら、それはただ、人間の本性を知る『土壇場』を経験してないだけだ。時間の問題である。
参照文献
聖書
エレミヤの書 第5章。