キリスト教の礎 イエス・キリスト
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内省
これは私の完全な独断による見解だ。キリスト教では一貫して『神』という言葉を使うことを貫いている。しかし、私はその『神』の存在によって『苦しめられた』経験を持っている。 親がクリスチャンだったのだ。しかも、『エセ』クリスチャンだ。 私の言葉は厳しいが、これは私にしか言えない。 だからハッキリと言わせてもらう。 ここに書いているだけではない。私はそれを直接親に言っている。
口論をし、ディスカッションをし、そして論破している。普通、『クリスチャン』なら『論破』などされない。なぜならクリスチャンとは、『神の教えを把握した者』である。そんな偉大な人物が、『論破』などされるわけがない。 しかしされた。勢いに押されたし、圧倒的な理論に押し負けた。
例えば、イスラム教徒との争についてだ。
『なぜイスラム教徒が、ムハンマドを侮辱されたことに怒り、アメリカの要人を殺害し、争いになった地に出向き、自分の命を差し出して、争いを止めないんだ?イエス・キリストは無実の身なのに、自分の命を投げ出したのだろう。そんな人として難しいことが出来たから、彼を崇拝しているのだろう。 だとしたら、彼の信者なのであれば、それが出来るはずだ。
出来ないならあなたはただの『エセ』クリスチャンだ。『エセ』。つまり、『似ているが本物ではない』。本当のクリスチャンであれば、命を捧げて争いを止めるはずだ。そうすれば恐らく世界中のエセも含めたクリスチャンは感動し、クリスチャンでない者も心を打たれ、あるいは、怒り狂ったイスラム教徒の人々からも、見直されるだろう。 クリスチャンの数も圧倒的に増える。クリスチャンであることを誇りに思う人も圧倒的に増える。それが望みではないのか?
そうでないなら、あなたはただの『エセ』クリスチャンだ。 自分が生きながらえる為に信仰を利用し、信仰を仰がないものを排他的に淘汰し、区別し、あるいは差別する、 単なる『人間』だ。そういう人間によって、争いは引き起こされた。上辺では『愛だ、イエス様だ、神様だ』なんだ言っていても、 実際の部分では(自分が、自分が)と考えている。そういう人間が俺は、正しいとは思えない。』
この、親への私のセリフから、どんな葛藤と壮絶なドラマがあったかが読み取れるはずだ。私はこういう親から、『神様を信じなさい』と言われた。そして、信じることが出来なかった。私は『神』を疑っていたのではない。『親』を疑っていたのだ。
しかし時は立ち、私も成長し、親も一人の人間であることを悟った。親を一方的に恨んだ時代もあったが、今ではそういうことはない。もう違う観点で、親を見ているのだ。 彼女(母親)にとって、『神』が必要なのであれば、私はそれを否定しない。しかし、『神』なんであるかわからず、私の様に混乱してしまう人間はたくさんいるはずだ。そんな人に、『神』を押し付けるのは良くない。それでは本末転倒だ。 『神』や信仰は、救いの為に存在する。その存在が、人を混乱させ、精神的窮地に追い込むことは、あってはならないことだ。望めばそこにある。『神』という存在は、そういう存在でなければならない。
しかし、だからと言ってこういうケースはどうだろうか。
こう考えるとまた違う視点が持てるはずだ。
確かに、『望めばそこにある』。『神』とはそういう存在でなければならない。しかし覚えておかなければならないのは、『別にお前が望む望まない関係なく、神はそこにいるぞ』ということなのである。前述したような人間は、『それ』を見誤り、勘違いしたようだ。必ず公正な処分を受けることになるだろう。自殺をしたところで恐らく意味はない。 なにしろ、もし『神』がいるなら、『生死』とか『目に見える見えない』とか、関係ない。 人間の理解できない部分で、必ず制裁を食らうことになるだろう。
例えば人は、酸素が目に見えない。あるいは、顕微鏡を使わなければ見ることが出来ない、うごめく世界が在る。宇宙はどうだ。暗黒物質(ダークマター)はどうだ。今もこの身体を、それがすり抜けているというではないか。それは、最近になって人間の理解が追いつきだしたが、この様に、理解難解な事実現実が、実際にはたくさんある。ということは、人間が『今』理解している事実が『全て』だと思い込み、前述したような馬鹿な真似をして『勝った』などと思うのであればそれは、ただの『無知』だということだ。
彼にも事情があることだろう。そんな彼でさえ、『神』を望むなら、救われるのだ。『神』とは、そういう存在でなければならない。
参照文献
イザヤの書 第65章。