キリスト教の礎 イエス・キリスト
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私はクリスチャンの両親の下に生まれ、それを強要され、 教会に行かなければ怒鳴られ、時には刃物を握ったこともあるからよくわかるが、世の中には、『エセ』信仰者で、溢れている。 当然私の両親も、その類だった。何しろ、信仰は強要してはならない。私の心が信仰を求めていないのにそれを強要し、それをやらなければうちの子ではないという扱いを受けた。それだけで、そのあと私が家出をした十二分な理由になり得るはずである。それはもう15年以上も前の事だ。
だが、つい1年前、私が30歳になるかどうかというときも、散々揉めてきたはずの私の前で、祈りを見せびらかす様な行動をとる母親が居た。その1年後、つまりつい先日に、ようやく
というセリフをさらっと会話の中で言ったが、とんでもない。
このセリフを言うまでに、一体どれだけの壮絶なドラマがあったと思うか。そこにあるのは、およそ、サラッと聞き流すようなドラマではない。
しかし私はもう子供ではなかった。母親とて、大変だったのだ。生きるために、信仰が必要だったのだ。姉を亡くし、弟が精神分裂病になり、父が死に、今では夫も死んだ。そんな中、気丈に生きていくために、心の闇に一片の光が差した。その光がたまたま、イエス・キリストの存在だったのだ。だから、それはいい。終わったことは、もういい。私の事はいい。しかし全ての人は、覚えておかなければならない。
たとえあなたが『身の潔白』を唱えようとも、その家に不和があるのなら、その家に信仰者はいない。
参照:『格言の書 第17章』
格言の書 第17章。