キリスト教の礎 イエス・キリスト
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内省
これは以前、ブッダの言葉として書いた、
この記事と内容が同じだ。
若き日は特に、この刹那的な快楽に身を任せてしまうものだ。かくいう私自身が、そうだったのだから。 止められないのだ。衝動を。抑えられないし、別に抑える必要もないと思ってしまう。メリットは、それだけみなぎるエネルギーが充填されているということだ。それは喜ばしいことだ。しかしデメリットは、そのエネルギーが充填しすぎて爆発してしまうということ。それは往々にして好ましい結果を生まない。その両面と向き合い、どう結論を出すかが、時に一生を左右する運命の決断になる場合がある。
例えば、事件だ。衝動に身を任せ、一線を越えてしまうと、それは『事件』となる。それが取り返しのつかないものならば、一生ついてまわる最悪な結果になるだろう。『一生』とは、あなたが思っているよりずっと長い。子孫を遺して命を繋ぐ権利も、当たり前のことを当たり前の様に楽しむ権利も、全て剥奪されるということは、想像以上に苦痛だと思った方が良い。その精神的ストレスで、衰弱死することもあるだろう。『安楽死』ではない。『衰弱死』だ。それは決して『安らかに、楽に死ぬ死に方』ではない。
例えば、麻薬だ。麻薬の中でもヘロインは、3度やったら二度と抜け出せないと言われている最悪のドラッグだと言われているが、快楽に身を任せ、その一線を越えてしまうと、もう後戻りはできない。覚せい剤でもLSDでも同じことだ。例えば『シマウマの縞 蝶の模様』にはこうある。
ヒツジの『単眼症』は、母ヒツジが『アメリカバイケイソウ』という植物を食べてしまったことで、それに含まれる『シクロパミン』という物質が、それを巻き起こしてしまうことが判明している。
自分が服用した麻薬が自分に、その子孫に、どういう影響を与えるかを考えただけで、 背筋が凍りつかなければならない。それが通常の人間の反応だ。
大体の場合が、『好奇心』という名の『刹那的な快楽』を求める衝動だ。取り返しのつかない事件を起こしてしまう人間がいるが、彼、彼女らの人生を見てどう思うかだ。何とも思わないのなら、素質がある。もちろん、『悔いの残る人生を送る素質』だ。そしてそれは自分の代だけでは終わらない。
末代まで続く、負の連鎖の始まりだと思った方が良い。 あるいは、『始まりと終わり』だ。なぜなら自分が『末代』になる。命がけで繋いできた先人たちの『命のリレー』を、あっけなく、刹那的な快楽によって、打ち砕くことになるのだ。そのエネルギーを違うことに向ければいい。そのキーワードだけをまずは徹底的に意識してコントロールするべし。そのうち意味がわかってくる。まずは内省して、このことを真正面から直視する時間を作れるかどうかだ。
参照文献
コヘレットの書 第11章。