キリスト教の礎 イエス・キリスト
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内省
人が黙っている。それを目の当たりにした人間の意見は様々だ。
(けっ、こいつビビッてやがんな。)
(いや、この人が喋らないのには理由がある。)
ちなみに私の部下には『吃音症』という『無言になってしまう病気』を患っている人間がいて、 吃音症は、保険が適用されるれっきとした病気である。そういうパターンもあるのだ。相手が『言えない』のか『言わない』のか、そこには様々な理由があるはずだ。それなのに、一辺倒に考える人間が後を絶たない。私の人生の周りでも、9割がそういう人間だ。むしろその1割は、珍しかった。彼らと会った場所も、異常だった。彼らは私の永遠の恩師である。
彼らは言った。
つまり彼らは、『表層上』などに支配されていなかったのだ。『実質』を見抜く見識に長けていたのである。私はこの『表層』に躍起になる人間に嫌気がさしていた。だから『実質』を『表層』に出すことに恥を覚え、それを封印していた。しかしそれを恩師が見抜いたのだ。こういう人間でなければ、人の心を理解することなど出来ない。『表層上』というのは、あくまでも『心の内面』が浮き出た結果である。ということは、目を向けなければならないのは『内面』の方だ。
『5』という結果が出た時、その『5だけ』に反応するのが9割の人間だ。そして、『4,3,2、1…そして初めの0は、何だったのだろう』と考えたのが、恩師だったのである。『5』にたどり着くまでに経た過程があるはずだ。そんなこと、至極単純な、『算数』の世界である。
例えば事件だ。事件という『5』にだけ反応する人間が9割だ。しかし、本当に目を向けなければならないのは、一般の人間でも『4,3,2、1。はじめの1歩目は何だったのだろう。』という内省であり、プロならば『0。根幹の0を紐解き、問題の解明と再発の抑止に努めよう。』という分析である。
参照文献
アモスの書 第3章。
関連する『黄金律』
『愛があれば全ては解決する。』
『自分の心と向き合った人間だけがたどり着ける境地がある。』