キリスト教の礎 イエス・キリスト
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内省
例えば『ガラツィア人への手紙 第5章』には、
誰とでも肉体関係を持つようなみだらな行い、倫理的にも身体的にも不潔な行い、わいせつな行い、人が作った物を拝んだりすること、占いや魔術、憎しみを抱くこと、 紛争、妬みや嫉み、怒り、徒党を組む、仲たがいさせる、異なった教えを広める、 羨み、酒に酔いしれる
などとある。キリスト教の7つの大罪で言わせれば、
- 傲慢
- 強欲
- 怠惰
- 憤怒
- 暴食
- 色欲
- 嫉妬
があるわけだから、上に挙げたものはこの大罪にも多く当てはまっている。世界の四聖はそれぞれ、『罪の定義』をこうしている。
孔子は『利己』、 ソクラテスは『無知』、 ブッダは『執着』、 キリストは『罪』である。
キリストの罪の定義が『罪』という意味がわからないと思うが、 実は、『罪』という言葉の語源を紐解くと、『的を外す』というヘブライ語に行き当たる。つまり、『自分の欲望を間違った方向に向けてしまう』ことが、 キリストの言う『罪』ということなのである。しかし、『1+1=2』が『正しい方向』で、『それ以外の答え(3,4等)』は全て『間違った方向』と言う様な単純な問題ではないところが、 人々を混乱させてしまっている。
しかし、だからといってこの世が、 花も、花火も、いい香りも、最高の絶景も、色も、 何もない白黒の、平坦な世界であれば、人は生きていて楽しいだろうか。『混乱する』のは、=『その分自由』だということなのだ。その自由を与えられているのに、『混乱するのでやめろ』というのは、 いささか『傲慢』である。自由の権利を与えられた人間が持っていくべき『思考の方向』は、 『思考の放棄』ではなく、『真理の探究』である。
これは、かつて『思考の放棄』の代表の様な生き方をしていて、今では『真理の探究』をしている私が言うのだから、間違いない。思考の放棄というものは、大体途中で、『外部要因への責任転嫁』が原因でシャットアウトされる。しかし、その責任転嫁がなくなると、それはつまり『自分本位』ではなくなり、
(そうか、私『に』周りが合わせるのではなくて、私『が』周りに合わせる、つまり適応していけば解決するんだ。ではその為にどうやって考えていったらいいだろうか。)
という方向で思慮が進んでいくのである。そう考えると、冒頭で前述したようなことの『善悪の判断の規範意識』も強化されているはずだ。ガラツィア人への手紙に書いてあるようなことは全て、『欲望を間違った方向に向けている』ということで説明がつく。『人間が勝手に作り上げた現実』であって、『過去未来永劫として普遍的、かつ不変的な真理』ではないのだ。
『周りに適応する』ことは、『周りに同調・追従する』ということではない。適応するというのは、意志を殺すことではなくて、むしろ、全ての人が意志を持ってこの世を生き貫くために、必要な事なのだ。まさか自分だけがその私利私欲を貫いて満足すればいいと思っているのだろうか。それは、ただ思慮浅いだけだ。
参照文献
ガラツィア人への手紙 第5章。