キリスト教の礎 イエス・キリスト
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内省
友というのはなかなか難しい関係だ。恐らく真の友人は、人間として未熟な時には出来ない。これは、長い間友人と共に生き、一時は家族よりも優先して生きていこうと思っていた私が言うのだから間違いない。例えば幼少の頃遊んでいた友人の名前や顔を、思い出せるだろうか。中には当然幼馴染と死ぬまで友人関係でいる者もいるだろう。しかし、その他の人の名前も憶えているだろうか。当時、間違いなく一緒に遊んで、話をしたはずだ。
それから話は一気に飛ぶが、最近、『同級生殺害事件』が起きた。あれは『友人』ではなかったのだろうか。なるほど、そう考えるといささか、『真の友人は未熟な時期にはできない』という発想も、否めなくなってくるはずである。『幼少の頃にはできない』とは言っていない。『未熟な時期にはできない』と言っているのだ。つまり、人として未熟同士であれば、それは一生『真の友人』にはなれない。
裏切ることもあるだろう。虐めることもあるだろう。無視、シカト、捏造、謀略、価値観のズレ、気持ちの行き違い、金銭問題の為に連帯保証人を迫ってきて、土壇場で逃げてしまう者もいるだろう。異性問題の為に、関係を狂わせてしまう者もいるだろう。どちらせによ『未熟な時期には真の友人はできない』。友を売るような発想が頭をよぎるというのなら、自分は未熟者であり、自分には友など一人もいないことを自覚した方が良い。
だが、気にすることはない。そこを認めて、そこからやり直せばいいだけだ。それを受け入れてから、本当の人生が始まる。本当の人生が始まれば、本当の理解者が現れるに決まっているだろう。何しろ、本当の自分の生き方をしているのだ。その道で出会う人間こそ、真の友人なのである。
参照文献
シラの書 第27章。