キリスト教の礎 イエス・キリスト
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確かに、全ての森羅万象は平等に愛が与えられる権利を持っている。しかし、当然その振り分けは、『公正』に行われる。
『経営の教科書』にはこうある。
まさにその通りだ。そしてこれはそもそも、仏教の開祖、釈迦(ブッダ)の言葉であるという。理不尽な犯罪者がいたとしよう。そして理不尽といっても、被害者やその家族から見て、ということではなく、誰から見ても、心理分析官から見ても、裁判官から見ても、弁護する弁護士から見ても、理不尽な人間がいたとしよう。
もう、秩序などないのだ。それに、悪知恵もあって、何度捕まっても自分を変える気などない。その癖、弁護士と法律を駆使して、毎回その場逃れしようとするのである。しかしやることは猟奇的で、人の道を外れている。隠蔽、捏造、強姦、小児拉致監禁、強盗、傷害致死、不正取引、横領、結婚詐欺、人身売買、武器・麻薬密輸、彼のやることは全て、人間の道から外れている。
しかもそれを正当化し、あるいは持っている力を全て使ってそれを正当化、あるいは仕立て上げ、脅し、まかり通させるのである。何かこう、特に両親に虐待されたとか、そういう過去はないのだ。いじめたし、いじめられたし、裕福ではなかったが、貧乏でもなかった。かと思えば平凡すぎるわけでもなく、刺激もそれなりにあった。しかしある日から、性癖や、私利私欲に突き動かされ、謎の思想を持つようになり、もう本当にそこに、特に理由はないのだ。
(やってみたかった)
などという、弁護士もどの方向で弁護すればいいかわからないような、そういう掴みどころのない人間。 強いて言うなら、『欲望の塊』。欲に突き動かされ、『聖性』が無になったのだ。
『魔性』に憑りつかれた彼は、人間の皮を被った、まるで悪魔である。しかしこういう人間にも、平等に愛を得る機会は与えられる。しかし、当然その振り分けは、『公正』だ。人の道から踏み外した人間が得る『公正な処遇』とは、真っ暗闇の崖の下で『人間』を見上げて、自分のしたことを悔いることを、強いるという処遇だ。愛が平等に与えられるからといって、分配されるのも『平等』だと思っていたら、悔いを残すことになるだろう。
第二法の書 第26章。