キリスト教の礎 イエス・キリスト
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内省
『治療』は、外部に依存した怪我の治し方、『治癒』は、内部から発生する力で治す怪我の治し方。動物は傷口を舐めて『治療』するが、 人の怪我は傷口を舐めただけでは治らない。唾液に殺菌効果があると言うなら、 試しに病院に行くと良い。それで何人の医者が、傷口をペロッと舐めてくるか検証するのだ。0人だということがわかるだろう。
もちろん過去の時代や、軽い怪我ならそうしたかもしれない。しかし、消毒液が出て、舐める人がいなくなった今、傷口を舐める人など、もういないのだ。なぜなら『それよりも効果的な治療法がある』ことを知ったからである。というより、『舐めるのは決して最適な方法ではない』ことを知ったからである。動物だって重症なら同じことだ。舐めただけでは治らない。しかし、舐めることしか、知らないのだ。技術が無い。だから種の保存も上手くいかない。
『慣れ合って傷口を舐める』 のも同じ考え方だ。一見するととても『やさしい』行動に見える。しかしそれは『易しい』。思慮が無く、動物レベルだ。動物に本能はあっても、深い思慮はない。つまり彼らと同じレベルの『傷口を舐める』と言う行為は、思慮浅い。簡単だ。『易しい』。決して、『優しい』わけではない。『優しい』のはどちらかというと、時には傷口に塩を塗る人のことだ。
前述したまでの考え方で言うと、『傷口に塩を塗る』ことは、非合理的である。しかしそれには理由がある。『治癒』の助長を促す為にやるという理由があるのだ。つまり『自然治癒能力』を促す、その力を助長する手助けをする為に、『塩を塗る』のだ。塗りたくる。そして、病気よりもそれに関する抵抗感が出て、それで『自然治癒能力』が活性化する。
一昔前は、『俺は一度も病院に行ったことがない』 と言い張る人は大勢いた。彼らは最初から、そういう教育を受けていた。あるいは、薬や、注射、辛気臭い病院の雰囲気を嫌ったのだ。その心構えが『自然治癒能力』を活性化させ、(病院に行くぐらいなら)として免疫力を上げ、自律神経を整え、プラシーボ(思い込みによる)効果によって、彼らを病院いらずの健康な体にするべく、コーティングしたのだ。
この話を裏打ちする、極めて興味深い話がある。世界的に著名なアメリカの細胞生物学者であり、ウィスコンシン大学医学部やスタンフォード大学医学部で教鞭をとるブルース・リプトン博士の著書、『思考のすごい力』にある、実に衝撃的な事実だ。
1952年、イギリスで、ある掛け出し医師がミスをした。そのおかげで、医師アルバート・メイソンは、短い間ながら学界でもてはやされることになる。 メイソンは15歳の少年のイボを催眠療法で治そうとした。イボの治療に催眠療法が適用されることがあり、かつ成功率も高く、メイソンもそれまで経験を積んできた。(訳註:イボはウイルスの感染によるものだが、催眠によるイボの治療は当時広く行われており、治癒率はかなり高かったという。だが、なぜ催眠によってイボが治癒するのかは解明されていない。)
ただし今回は厄介なケースである。肌がごわごわになっていて、人間の肌というより、まるでゾウの皮膚のようなありさま。しかも全身がその状態で、まともなのは胸だけ。ある外科医が皮膚移植で治療をしようとして断念し、メイソンに少年を任せたのだ。
最初の治療で、メイソンは片方の腕に焦点を絞ることにした。少年を催眠状態に導き、この腕はイボが治って健康なピンクの肌になる、と暗示を与えた。 一週間たって再びやってきたとき、治療を施した腕はかなり良好な状態になっていた。メイソンは喜び、少年を外科医のところに連れていった。
だがそこで、メイソンは自分が医学上のミスを犯していたのを悟った。腕が治ったのを見て、外科医はびっくり仰天した。メイソンには伝えてなかったのだが、少年の腕はイボではなく、先天性魚麟癬(ぎょりんせん)という、命にかかわる遺伝病によるものだった。 この病気の症状を精神力『だけ』で治すことなど、とうてい不可能だと考えられていたのだが、メイソンと少年はそれをやってのけたのである。
メイソンが引き続き少年に催眠療法を施すと、最初に治療した腕と同じように、肌のほとんどは治癒して、健康的なピンク色に戻った。少年はグロテスクな肌のために、学校で情け容赦ないいじめを受けていたが、その後は普通の生活を送れるようになった。メイソンが魚麟癬の驚異的治療について、1952年に『英国医学雑誌』に報告すると、大騒ぎになった。メディアが派手に書きたてたために、致命的で、かつ良療法が見つかっていない、この奇病に悩む患者たちがメイソンのところに押しかけた。
だが結局、催眠療法は万能ではなかった。メイソンは何人もの魚麟癬の患者に催眠療法を試みたが、あの少年と同じような結果は、ついぞ得られなかった。メイソンは、治療に対する確信の無さが失敗の原因だと考えた。少年を治療したときは悪性のイボだと思い込んでいて、必ず治せると自信満々だったのだが、そのあとの患者の治療にはそういう態度で臨む事が出来なかったという。
これは『治癒』が持つ底知れぬ可能性を思い知るワンシーン。つまりこういうことだ。
『生半可な治療をするぐらいなら、対象者の治癒力を促すために、神経を使え。』
あえて対象者が『痛い』と思う助言が言えるのは、 真の友人である証拠だ。反論されても、言い返しされても、悪口を言われることになっても、彼らは関係ない。 彼らは本当に、友のことを想っているからだ。
彼らが望むのは、対象者に『良い人だ』と思われることではない。その噂を聞いた多くの人々に、『やさしい人だ』と尊敬されることではない。友が救われること、無事に、元気に生きていくこと。それだけを望んでいるのだ。その為なら時に『傷口に塩を塗る』。それが真の友人の成せる行動である。
参照文献
格言の書 第27章。