キリスト教の礎 イエス・キリスト
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内省
孔子も、
という方向の思慮を持っていて、
『自分の先祖の霊でもないのにペコペコ頭を下げて拝むのは、信心深い行為をしているのではなく、あわよくばご利益を得ようとの下賤な行為だ』
と言った。聖書にもこうある。
『信仰を持っていても愛が欠けているのならば、その人は無に等しい。』
良く考えたらわかることだ。例えばわけのわからないカルト教団があるとする。だが、彼らは別に自分たちのことを『わけのわからない』とは思っておらず、『信仰がある』と信じている。しかし、彼らが『理解力のない人間界をリセットしよう!』などととち狂い、テロ行為を行った。
これが、『良し』とされるわけがないだろう。そこに、『愛』など一片もないのだ。『愛』は与えるものだ。奪っておいて、そこに『愛がある』などと、口が裂けても言うことは出来ない。
ストーカーが殺人事件を犯した。彼・彼女ら曰く、
あの世で一緒になれると思った。これで一生自分のものになると思った。
というのだ。もう一度言おう。『愛』は与えるものだ。奪っておいて、そこに『愛がある』などと、口が裂けても言うことは出来ない。同じように信仰も、信念も、『愛』があるかないかだ。無いなら、自分の私利私欲を求め、不正をし、妬み、嫉み、もちろん自分自身はそれによって苦しまされるだろう。
助けてほしい?信仰を持っているんだから、私は助かるでしょ?そもそも、『自分の身などどうでもいいから、他人を助けてください』と言う選択肢もある中、その主張をする自分に本当に愛があるかどうか、自問した方が良い。
参照文献
聖書
コリントの信徒への手紙一 第13章。