キリスト教の礎 イエス・キリスト
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『執着』があるようでは、まだ愛の形は完成していない。『愛着』まで辿り着けるかどうかだ。いきなり上級者向けの話をするが、自分の右腕が切り落とされた。しかし、その右腕に、その切り落とした人に、『愛着』が持てるかどうかだ。
なぜ持てないのか。『自分が攻撃された』から?では、自分が攻撃さえされなければ、愛するというのだろうか。だとしたらそれは、『まず自分の命と人生と身の保身が絶対条件で、それが前提にあって』ということなのだろうか。それで初めて、人を、物を、森羅万象を愛せると。
だとしたらそれは『愛』ではない。『偽善』だ。『偽愛』だ。『愛は与えるもの』だ。アンパンマンが自分の顔を食べさせるだろう。あれはとても愛に溢れていて、喜ばしい話だ。だがもちろん彼は、工場に戻ってジャムおじさんに新しい顔を作ってもらえるとわかっている。
しかし、もし、作ってもらえないなら、彼は顔を食べさせないだろうか。だとしたらそこに、愛はあるのだろうか。あれはフィクションだからどうとでもなるが、私は、彼なら顔を食べさせると思う。そして、結局周りの人がそれを、放っておかないと思う。愛に溢れている人は、愛に支えられ、愛に埋もれて生きて、死んでいくのである。
愛は、私利私欲を超越した人間の最たる感情だ。ときにそれは神々しく光り輝き、人々はそれを『神』と見間違う。『神(人間を超越した者)』を見た人間の心は、『愛(神)』で溢れて胸がいっぱいになる。まるでそれは、この無情な世界に、一輪の綺麗な花が咲いた瞬間である。
ヨハネの第一の手紙 第4章。