キリスト教の礎 イエス・キリスト
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もちろんこれは、健常者にとって嬉しい祝福の言葉だ。生を満喫する。その為には、道徳を守って、法律を守って、勉強し、努力をし、家族を作って、それを養い、時には口論して、仲直りに温泉に行って、食事をして、映画を見て、読書して、スポーツをして、お酒を飲んで、ヨガをして、犬を散歩して、紅葉を見に行って、挙げたらキリがない。そのどれもが、健常者にとって素晴らしい人生の満喫だ。
だが、健常者だけでいいのだろうか。それでいいわけがないだろう。子を産めない人、同性愛者、障害、不治の病に生まれた人、貧困、身分差別に悩まされる環境に生まれた人間は?もちろん、同じように『人生を満喫する権利』がある。それは、上に挙げたようなことではないかもしれない。しかし、上に挙げたことがすべてではない 当たり前だ。まさか、自分のその職業だけが、人として崇高な職業だと思っているわけではあるまい
自分の職業に誇りを持っている人間など、たくさんいる。そう考えると、皆、自分の人生に誇りを持っている。いや、一つしかない自分の人生を生きているのだ。だとしたらそれを満喫するのだ。それが人の受ける分なのだ。
聖書の『伝道者の書 5章』にはこうある。
『見よ。私がよいと見たこと、好ましいことは、神がその人に許されるいのちの日数の間、 日の下で骨折るすべての労苦のうちに、しあわせを見つけて、食べたり飲んだりすることだ。これが人の受ける分なのだ。実に神はすべての人間に富と財宝を与えこれを楽しむことを許し、自分の受ける分を受け、自分の労苦を喜ぶようにされた。これこそが神の賜物である。こういう人は、自分の生涯のことをくよくよ思わない。 神が彼の心を喜びで満たされるからだ。』
コヘレットの書 第9章。