キリスト教の礎 イエス・キリスト
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内省
私も10代の頃は、『自由=欲望の解放』だと思っていた。だからやりたいときに、やりたいことをやった。もちろん、ルールや道徳など関係なかった。確かに刹那には解放されて、自由になった気がした。しかし、すぐに私の自由は無くなった。やりたい放題やった人間の人生からは、自由は奪われてしまうのだ。
それから数年後、『私は素直すぎるから』と言うのが口癖の、とても綺麗な20代の少女と出会った。彼女はとても美しく、かわいらしかったが、覚せい剤をやっていた。もちろん私も、言えたような人生を送っていなかったわけだが、私は彼女が自信満々に『素直だから(欲望に)』と言うことに対し違和感を覚え、(素直な生き方とは、なんだろう)と葛藤したものだ。
聖書におけるガラツィア人への手紙にはこうある。
『その自由を肉の欲望を刺激する為に用いてはならない。自由を欲望の為に使ってはならない。誰に対しても互いに愛し合うように。その愛の場合でもどちらかがどちらかを支配したり、相手に従うのではない。むしろ、愛に置いて互いにかしずくように。愛の奴隷となるように。』
肉の欲望を刺激することが、自由なのではない。自由とは、欲望の解放を意味するのではないのだ。かつて私が自由を奪われたように、欲望の解放は、いずれその自由を奪う、悪の種となるだろう。
『愛の奴隷』というのは、『真理の奴隷』という意味。現代では『奴隷』というのはおどろおどろしい言葉だが、当時は奴隷制度が当たり前だったため、こっちの方がむしろ人の心に響いた。
(人の奴隷になるくらいなら、愛の奴隷になる方がよっぽど崇高だ)
と考える人が大勢いたに違いない。現代人から言わせれば『愛・真理の奴隷』とはつまり、 真理に従った生き方をする』という意味だ。
欲望が叫んだ。
(あの女とヤリたい。)
しかし『真理』はこう叫んだ。
(彼女は君の友人で、人の妻だ。それをすれば全てが崩れるだろう。)
それに従う。それが、『真理に従う(愛の奴隷になる)』という意味だ。人間の欲望は果てしない。だからそのたびにそれを解放していては、自由などすぐに奪われてしまうだろう。この人生を最後まで自由に生きていく生き方とはまさに、『真理に従う(愛の奴隷になる)』生き方以外には、あり得ないのである。
参照:『ガラツィア人への手紙 第5章』
参照文献
ガラツィア人への手紙 第5章。