キリスト教の礎 イエス・キリスト
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内省
デカルトは言った。
つまり、『思わなければ』、人間はいないのである。では『思わなければ』、人間は何になるのだろうか。土、海、山、星、それと何が違うのだろうか。あるいは、微生物、植物、昆虫、動物と、何が違うのだろうか。
我々人間は、時にそれらを軽んじ、自分たちの人生を何よりも優先させることがある。昨日、無意識に踏みつけたあの虫は、今日、埋め立てたあの道路の下にいた動物は、明日、切り崩す森林の植物は、我々の人生とは、関係ない、別次元で、下等な生命だと考えているのだ。
『愛』があるなら、それをしないはずだ。『愛』とは、奪うものではない。与えるものだからだ。まさか他の生命を淘汰しておいて、便利になった生活に酔いしれて、『我々人間の利便性を追求するのは当たり前だ』と思っておいて、自分は『愛』に溢れた人間だ、と思っているわけではあるまい。
だが逆に、『害虫』は人間の人生の邪魔をしてくる。『毒』を持った植物や細菌、昆虫や動物は、人間の命を脅かす。地震、津波、雷、ハリケーン、隕石、そう考えると、別に人間以外にもこの『愛』を持っている存在があるのかどうか、疑問だ。彼らはときに、『奪う』。愛が与えるものならば、彼らに愛などないということになる。そもそもデカルトの言う様に、『愛』など人間が勝手に考えた言葉であり、概念なのかもしれない。
だが、親が子を叱るとき、確かにそこに『愛』があるではないか。あれは一体なんだというのか。聖書における『ヘブライ人への手紙』には、それは、
『神が自分の聖性を子に与えようとしているからだ』
と書いてある。なるほどそう考えると、腸内にも『善玉菌(ビフィズス菌)』と『悪玉菌(ウェルシュ菌)』がいるように、太陽が『砂漠で遭難する人』に残酷になり、『寒さに凍えた者』に奇跡の恵みになるように、『聖性』と『魔性』が人間にはあり、そしてその『聖性』こそが、『愛』なのである。
悪玉菌が優勢になると、下痢になる。太陽の陽射しが強すぎると、その紫外線で人は焼け死ぬ。同じように、人間には『聖性』と『魔性』があって、『魔性』に傾けば人間は混沌に陥る。誰もが一度は、自分の『魔性』と向き合って悩んだことがあるだろう。だが、『聖性』という『愛』だって、在るのだ。それは周りが自分に与えるものではない。自分がコントロールして、心から捻出するものなのだ。
参照文献
ヘブライ人への手紙。