キリスト教の礎 イエス・キリスト
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聖書に対し、ヨハネによる福音書第1章について書いた、
で私は、『初めに言葉があった。言葉は神と共にあった。言葉は神であった。』ということが、意味が分からないからわかりやすく書け、という不満を冒頭で書いたのだが、それは今も同じことだ。 信仰が『混乱』させてどうする。信仰は『救い』の為にあるのだ。真のクリスチャンがこの世にいて、それを心底から信じているなら、世界の人にわかりやすいようい『超訳』をしてもらわなければならない。 この言葉を、小学生が理解できると思っているなら、目には節穴が空いていると思った方が良い。
さて、ある識者はこの一節をこう説明している。
なるほど、つまりとにかくこういう風に、本当にその信仰に確信があるのなら、自分たちだけで囁き合っていないで、世界中の人にそれを伝えるべきだ。 それが出来ないのなら、近場にいる人にも同じようにそれをしてはならない。そうじゃないと『近場の人』が、混乱するからだ。
(なぜあの人たちは違う信仰なの?)
それに対し、どう説明するつもりだろうか。まさか、『私たちは私達。あの人たちとは関係ないんだ。』と言うつもりだろうか。だとしたら信仰など、人間同士に隔たりを生む原因になるから、この世には必要ない。厳密に言うと、信仰自体は重要だ。だが、人間がそれを理解して使いこなしているかどうかは、別問題だ。 我々の枕には、ダニやその糞がはびこっていて、外出から帰宅したその衣服には、花粉やホコリがこびりついている。
肌には無数の常在菌が棲みついていて、空中には窒素と酸素が蔓延していて、あるいは宇宙からの暗黒エネルギーが身体をすり抜けている。 だが我々はそれを目で見て捉えることが出来ない。それなのに、何を理解しているというのか。 人間に対しても、信仰に対しても同じことだ。 人間には、まだまだ『伸びしろ』がある。
ヘブライ人への手紙 第11章。