キリスト教の礎 イエス・キリスト
Contents|目次
そもそも、誠実、不誠実というのはどう決めているだろうか。そんなもの、自分たちの物差しで勝手に決めているだけに過ぎない。相対的なのだ。例えば、ある大物有名人は、大物を通り越して超大物だった為、苦笑いするしかない出来事が度々あるという。彼は言った。
だがもちろんそのスタッフは実に腰が低く、敬意を持って接してくる。『表面的』には、とても誠実に見える。しかし、実際はぼったくっている。そう考えたら、誠実、不誠実など、どうやって判断すると言うのか。
そのぼったくったスタッフが、途上国の難民で、腹の空かせた子供を何人も抱え、今日食事代を稼がなければその子供の命が危ないという事情があり、心を鬼にしてそうしたのであれば、今度はそのスタッフが、『誠実』に見えてこなくもない。元々金のある人から金を取って何が悪いのかと考えたら、確かに金がある人は積極的に寄付や人助けや納税をするべきだという意見も、理に適っていなくはない。
だが、それを寄付される側が言うとまた違和感があるし、自発的にやったらやったで、背景に印象管理の情報操作や話題作りの匂いがして、偽善者っぽさが滲み出たり胡散臭くならなくもない。キリがないのだ。相対的なのだから。
だが、赤ちゃんを見て、『不誠実』だと思う人はいるだろうか。赤ちゃんはとても純粋無垢で、清廉潔白だ。もし、その後の人生で人格が歪んだのであれば、それは赤ちゃんのせいじゃないだろう。赤ちゃんは純粋だったはずだ。それに色を付け、あるいは歪曲させた存在があるのだ。
それは『人間』である。『人間』というものは、もはや不誠実な存在なのだ。その意味で、赤ちゃんはまだ『人間』として未熟なのだ。『人間として未熟だから、誠実』なのだ。
by吉行淳之介
私は潔白だが、あの人は悪だ。そう考えてしまう人間こそ、汚れているのである。
エレミヤの書 第12章。