キリスト教の礎 イエス・キリスト
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私の前職の上司が、私に対して威厳を示そうと思ったのか、意気揚々とこう言ってきた。
そうか。だが私は、まだ幼い小学生で、死んだ親の借金、1億円を背負った人間を知っている。
人生とは、『海』だ。『浅瀬』で浮き輪を付けて遊んでいただけの人間が、『深海』に潜ったわけでもないのに『海』を語ると、それだけで軽薄な人間だということが露呈してしまうので気を付けた方が良い。
同じように、人間には差異があって、それは『環境・時代』とか『体質・体格』とか『能力・性別』などが挙げられる。では、生まれたときに、すでに人殺しやマフィアや暴力団の息子・娘だった場合、彼・彼女らの人生は一体どうすればいいのだ。『借金だけはしなかった』などと、あるいは、『あいつは悪者で、悪魔の子だ』などと。『差異』はあっても、そういう『差別』があってはならない。
仏教の開祖である釈迦は、このことを『カルマ(業)』という概念でもって、力強く説いた人間の一人である。例えば、
そう言って、過去から続く負の連鎖を断ち切るよう主張した。さしずめ『カースト制度』の在り方に疑問を覚えた釈迦は、それに異論を唱え、自ら切り開いた新しい真理を説いて回った。それが『ブッダ(悟りを開いた者)』の姿である。私が今のところ最もわかりやすいと思っている話がこれだ。
ロウソクについていた火が、消えた。だから新しく、つけた。だが、その火がどうしてさっきまでの火と同じものだと言えよう。
我々は、たった一度の人生を生きているのだ。とりわけこの言葉は、過酷な人生を強いられている人間に響くだろう。しかし、過酷じゃない人生を生きている人間にも、響くときは響く。だとしたら、『過酷』か『過酷じゃない』かも、自分で決めていることなのだ。この人生というたった一度の『火』が、『負の火』か『奇跡の火』だということも、自分で決めていることなのだ。
荒野の書 第35章。