キリスト教の礎 イエス・キリスト
Contents|目次
私はクリスチャンの家庭に生まれた身として、耳に残っているのはこのような言葉だ。 『感謝』、『祈り』、『アーメン』、『イエス様』、『悔い改め』、『思い通りに行かない』 当時はウンザリして拒絶反応すら出ていたわけで、これらの言葉を聴いただけで虫唾が走った。
この間、『笑っていいとも』がついに32年の幕を閉じ、学生時代から知り、あるいは、およそ10年に渡って連続で視聴していた私は感慨深いものがあった。それは多くの人が、そうだっただろう。そのとき、いや正確には最後のクリスマススペシャルに、タモリが初めて例の『神父』を演じる理由を話したのだ。仏像が好きで、仏教徒であることをほのめかしていたのでそう思っていたが、タモリもかつては、教会に通っていたという。そして今回のテーマのような言葉をよく聞いたというのだ。 女の子にプールでちょっかいを出しながら、
(これも後で反省すれば許されるんだ!)
と言い聞かせ、ふざけていたと。バラエティ番組らしくふざけた口調で話すタモリのその話を聞き、会場には笑いが起きていた。彼がどういう気持ちでその過去の感情を露わにしたかは定かではないが、クリスマスが嫌いで、キリスト教のことを少し揶揄したような振る舞いからは、どこか、それに対して嫌な印象を持っている人間なのかもしれないと、私は以前から感じていた。
ガンジーも、
と言っているし、私も、クリスチャンでもない人間がクリスマスに騒いだり、あるいは孔子も、
こう言っているが、私も、結婚式やあらゆる儀式に、 その宗教家でもないのに、宗教儀式を取り入れるのは間違っていると考えている。 彼も家庭環境が複雑だと言われているが、 幼少から宗教が環境に在った人間の心は、私はよく理解しているつもりだ。だから彼の言葉には、何かメッセージがあるのだと思って、 真剣に耳を傾けた。
ヨナの書 第3章にはこうある。
『神は、人々が今まで行ってきた悪い行いをあらため、本当に悔いているのを見た。そして、彼らに罰として与えようと思っていた災いを下すのをやめた。』
おそらく、私もかつてのタモリも、この言葉の意味を、曲解したのだ。 『本当に』という決定的な部分をないがしろにしていた。(後で反省すれば許されるんだ!)と言って罪を犯すことは、許されることではない。
タモリの話は一度忘れてもらおう。以前、日本中に激震を走らせた、ある残忍な事件の犯人は、刑期を終え、出所し、仲間を集めてある講習を開いたそれは、どう検事に話をすれば死刑、無期懲役にならないかという講習だったそして彼は、同じような事件を起こした一度目の事件で、罪のない人間が彼によって殺されたのに、だ。こんな人間が、『許されて』いいと思うだろうか。
いや、許されない。断じて、許されない。許してはならないのだ。人間は、そう言い聞かせて理性を育てなければ、皆、同じように歪曲してしまう可能性を持っているのだから。
ヨナの書 第3章。